帰宅して考える

まあオレには責任感というものが欠如しているのでその場が

どうなろうとどうでもいいわけですよ

 

ケツまくってもいいのはそういうことだ

 

その上でできる範囲のことはしますけど

できんことはできん

 

問題はその境目にあるそれですよ

部品をかえないとなおらないとか

業者が清掃(点検)に入らないとなおらないとかね

そういうもんってあるでしょうが

 

そこを見極める判断といいますか

 

あとまあ困ることが起こることがあるよね

 

困ることを解決できるかできないかとか

それは金がかかる方法でしか解決できないと解析できるかできないか

つまり分析

わからんときはわからん(経験しかないというのは方法はあるけど

そこにはないと言う店員)

 

+1

しかしそんなことを循環かんがえながら家でくつろいてついったみていると

故人にかわってついーとします

妻はがん闘病をこのツイートアカウントで書いていましたが

ついにちからつきて亡くなりまして

これまでのご厚誼ありがとうございました

みたいな挨拶がみられるのである

そういうのみていると

オレがなにかを考えることなど人間の死の前では塵芥同然だな

とか思ってしまうのであるが

さて死は自分の死と他人の死で

他人の死をみて自分の死をおもえ

というめめんと・もり

があるとしてしかし他人の死よりもオレの塵クラスのちいさい考えの循環が価値ないものだといえるだろうか?

オレのそれはオレにとってはいまの目下の最優先課題

なわけじゃんね

まあ仕事がオレにもかすかにのこっているちっぴちっぽけな仕事の果たすべき義務であるサービス業のこころいき

からしてできるだけこまった事態については解決につながる方法を提示できるように脳の知恵をしぼって考える

ということはそれは脳についてはオレは真剣にそうするよと言っているのであるが

そういうことを考えていてもやはりこの世のなにか不公平な偏りでそれは若くしてそのがん闘病をしていた女性は母となってコドモがまだ1歳何か月かなんかでそういうわかい母が死ぬなんてオレがかわりに死んだほうが社会全体としてはいいのではないかとか血迷い事をいうてしまうような気迷いになってしまうのであるがそこで

いやいやそういうことを言うてはいかん

そもそもかわりになどなれないのだし偽善もいいかげんにしろというわけである

オレにできることなど所詮オレがオレの生命を使うことだけでそれはそのうち使いおわればなくすだけのことでみなそうだろ死ぬときはあるしみないつかはかならずそれを返却するんだろし

 

死には交換価値が無いということではないか

交換できないから