宗教あたまおかしい説

土曜のあさであり愚痴まじりのついーとを書いてみては消して

 

愚痴ってのはついに昨日楽天が日ハムにまけて

錦木関が正代関に負けて

まけまけ

もう負け越しだしCSも無理だねこのザマでは

そういうこと書きたくないが思っているのでしょうがない

推しとかいうけど推しを人間としてみてないんだよとかついったで観た

そうだね

応援とかおろかな行為で

所詮それは遠くにあって他者で

応援ってなに???

尊いとかウソだねそのために死ねるかって死ねないよ

殉死ってのが昔あったそうでそれは宗教や規範がもっと固くざりざりだった時代

の話なわけだが

それこそ昔のそれはおかしいねってくらいのおかしさで

宗教によってはりつけとかいって手と足の生きてる人間に釘を板にはりつける

という拷問が行われたわけだがそれを絵にして子供に見せるとか

おかしいよね

だいたい心臓にうつとか脳にうつとか頸動脈を切るとかすれば

即ころせることくらいは当時もわかっていたわけで

そうしないのはじわじわ苦しめるという意図があったわけで

たとえばこんなに痛いならもうその宗教オレやめるから許して

とか言わせたいみたいなよくがあったわけで

欲というのは他人をおもいどおりに動かしたい操作したい屈服させたい

跪かせることをしたい

って話しで

カノッサの屈辱とか最近本当のそれはこうだっていう本がでたそうだが

ただ雪のなかに跪拝させたというだけでは

本質がわかりかねるわけで

争い(殺したいのではなく屈服させたい)の本質はもっと長い黒い強い感情だ

 

アホか

 

それを宗教の名のもとにとかしてたわけで

 

まあ日本も織田と比叡山延暦寺僧兵(僧兵!)の戦いとかあったわけだが

オレがよんだものがたりでは織田の殿様は僧兵とかの宗教的権力をものすごい

憎んでいたんだよマンガ日本史みたいなやつでね

そう

なんか織田がリベラルで無宗教みたいなかかれかただった

 

参考としては

信長史上最凶事件!比叡山延暦寺焼き討ちに大義はあったのか? | Kyoto love Kyoto. 伝えたい京都、知りたい京都。

 

わかりやすいですね

 

もちろん今ではオレは宗教全部があたまおかしいとはいいませんが

オレは今でも「自分の外に体系が立っているものに無批判で寄り添う」ことは

あたまのおかしなことだと思っている

思想としてそういう思想があるんだと考えること自体はいいんだけど

だから仏教は宗教ではなく思想としての「空」という概念が

クリアで素晴らしいと思っていますが

輪廻するそして輪廻から解脱するみたいな「アイデア」は

いかがなもんかと思うわけですよ

 

と書きながらNHKFMミュージックラインにTofubeatsが来た回を

南波さんのころころスイートボイスをききながらきいている