広告と推しに萌えることと

 

サイトをつくって面白い記事をのせて

それに人があつまり

あつまることで広告を売ることができる

さらにファンクラブをつくってそこの月額課金を

あつめることでお金を儲けることができる

そういう仕事をしているわけだこの人たちは

 

それはお米をつくってそれを食べたりそれを売ったりすることと

魚をつかまえてそれを食ったりそれを売ったりすることと

本質的に何が違うのだろうか??????

 

それは人の役に立つのだろうか???

 

とか言いだすと

まわりまわって最終的に人のすることは全部他人のためになるんだよ

とか

言うやつが出てくるし

また

その一方で

役にたたない人は市ねというのか!とも

いわれるわけである

 

別に市ねというてるわけではありません

 

しかしね

 

広告がからむものを

すべて

オレの目からみるとこの世にあるべきではないくだらないもの

見えてしまうのだ

「あるべきではない」って

おまえそれは優生思想だろ

といわれる

うるせえな

 

オレは広告屋がこの世にいないほうが

この世はもうちょっとマシなんじゃないかと思っている

だけなんだよ

しかしいまそれをなくすことはできない

この日記で昔に考えてみたことがあったが

おそらくは広告は

それに類する行為は

ほんとうの大昔からあったはずだ

集団の人間がいて

モノがあって

それを売り買いするならばそこにはかならず

ニーズがあるところをターゲットにした宣伝行為があるはずだから

である

よびこみ

貼り紙

手段はなんでもいい

大声ではやしたてるでもいい

 

いつのまにか自分ではなにもつくらないやつが

広告屋ですと言って

コストをとっていくようになって

それがネットのすみずみまで汚染していったのだ

いまや新聞のおおくの紙面が広告で

広告のために新聞買うのアホらしいから新聞買うのを

やめたが

ネットは

ネットはここにこうして存在してオレの日記にも

広告がついていて

本当にもう

 

なんかどっかふりだしに戻ってやりなおすことはできないのか

 

一方で「ファンクラブをつくって会費を徴収する」のは

推しのそれである

好意であるし行為でもある

金をはらいた

お布施したい

そんなにしてまで

なにかを捧げたいのである

それは宗教のはじまりだったのかもしれないね

お遍路だってね・・・

自分のことではなく

大いなるものに身を捧げる意味でさ・・・

空と海と我がこう

我が身をむなしうして・・・

そういうあこがれ