殺される側の立場とか
殺した側が「仕方なかった限界だった」とか
そういうのが「通俗的」だから「陳腐で凡庸」
なのは
オレは同意したほうがいいのかね?
たしかにオレは「市子」をみていて
市子の母から
そのときのことを話できいた(注・語られたのではなく
映画の中で「シーン」があり実際に人工呼吸器を外した(ようにみえる)シーン
のあとに母がそれを肯定する(かのような)言葉を発したシーンがあって)
あとに
聞いたほうの若い男が泣いているシーンがあったんだが
たしかにその若い男が話をきいて泣くというリアクションは
興覚めだったんだけどね
昔から今にいたるまで「ろう者の映像ドラマ作品でろう者本人をつかわないで
聴者がろう者の演技をしているのを使うのはなぜか?」
といわれる(オレもむかし大学の同級生にそのことを話題にされたときに
何もいえなかった)
パワー
の問題といっていいのかわるいのか
いいかわるいかで討議するのがいいのかわるいのか
個人的には「いいか/わるいか」で討議するのは好きではない
いいかわるいかは特になにか決定的な違いではないからだ
決定的というのは「パワーをもつかどうか」の決定的な要素ということなのだが
じゃあ「正しい方向」につねにもっていくべきというときに
正しいのは誰にとって正しいのかと問うと
すべての人が「それは正しい」と認めるような正しさはこの世に
存在しないので解決も融和も話しあいもできなくなるのである
だから「正しい」というのを使うのはあまり適切ではないことになってしまう
こういうことをまたあとで考えますといってけして捨てれないのが
態度ということだと思うんだが