映画「市子」について

設定・構成・脚本・(戯曲からの)翻案というのか

なんというかね~~

納得いかないぶぶんがリアリティの邪魔をしているのが

オレの悪い癖でそれが気になってしまう

あと「この演技がキライ」というのはおそらく「言ってはいけない」こと

だと思うのではあるがしかしそれでもキライなのが2つあって

困る

 

以下内容にかかわる部分があります

 

 

 

 

わたしは俳優としての杉咲花さんはかなり上位大好き方面なのでその姿を

みているのは楽しかった

 

どういう感想をかくべきか

ネタバレしない方向で何を書くことができるか

オレにはできないなあ

難しいねえ~~

 

日本のベチャっとした夏

の描写はすごいよかったと思うのねえ=汗とかさあ

見てわかるもの

 

時間が過去から現在(?)からいったりきたりして

最終的にいまがいつなのかをはっきりさせなくする

 

事実として何があったかのところの「説明」を省略したりあるいは

そのもののシーンを描かないことによって省略する

しかしその省略によって

「多様な解釈が可能となる」のではなく

「単にそこを避けただけのように見える」のである

 

とくに決定的なことがあってそのために市子が逃げる

(逃げる映画なのです)のであるが

逃げるという中心主題があるその主原因を

そのように省略していることで

焦点はぼやけてしまうのではないか

(なにしろ市子と母の二人でそれを行っていないのに

母のほうからは実質的に母の想いも市子が背負ってそれをしたのだ

と証言している

(そういう風な意味にとれる)

こういう証言をするのであればそこの映画内事実として何があったのかを

ちゃんと省略しないで描かないとソレこそ母が説明台詞でそれを言うだけに

なってしまうのではないか)

と愚考いたしました

 

作劇というものについて考えさせられました

 

シーン個々のものは好きなものがおおくて

夏のセーラー服の市子とか

よかったですよ

北くんは気持ちわるいけどね最初から最後までね

それが目的だからしょうがない

 

逃げていく市子はおおむね不在で話は進むのだが

ちょっとだけ「現実時間」に市子が登場するのである

どうせなら市子は回想にだけ登場して

現実時間には登場しないでほしかった

 

オレが思ったのは

小説で

『ヒカリ文集』というのがあり

多くの男女の証言によって

不在の「ヒカリ」の姿を浮き上がらせる小説である

 

ここでは徹底してヒカリは不在だし逃げるしもういなくなっている

かんじなのである

 

それでよかったと思うのであった