人間であるかどうかに疑義解釈

憶えてることメモ

それこそ『私の消滅』では

例示するために描かれているところなのであるが宮﨑勤という

殺人事件の犯人のプロファイルの話が書かれている

 

のであるがそこに書かれているイメージ形成では

他者がどうしようもない暴力で満ちていたために

あるいは他の要素によって

人間らしいとされる人格が形成されなかったことと

前腕の骨癒合形成異常があった話とがあり

両方あいまって異常性格というか異常精神ができあがった

様子が書かれているのだが

その中ではオレが記憶する気になるところは

人格分離であり

自分を自分が遠くから眺める様子

の描写がありそれは

自分の精神が壊れないように守る話であるが

 

一方でこれは小説でよんだかどこでよんだか忘れかかっているが

やはり同じ小説にあったような気もするが

監禁尋問をずっとやっていて

無意味なことをやらせるのもそうだが

尋問者が何を望んでいるのかをやられているほうは知りたくなるという心理

知ってそのように行動するとこの苦痛はとりあえず少しは早くおわる

のではないかという希望にしたがってそう行動するわけだが

それがまた裏切られるとかわけわかんなくなる(尋問者に一貫性が全くない場合

とか)と もうどうにもならんくなるという様子

 

つまるところコミュニケーションは「予想」に基づいて行われていて

 

宮﨑勤のような精神壊れてる状態の人間でも子供に大声出されると

予想やのぞむところではないという宮﨑のほうの反応が出てくるし

監禁されてる人にしてもどうしても敵の様子の行動の意思の予想をしてしまう

というところ

 

コミュニケーションというのは人間対人間で行われているので

「相手もまた人間だ」という前提がないと成り立たないし

人間の範疇にあって予想と外れることはあっても

人間の範疇をはみ出してしまうような行動をおこすものとは交流できない

たとえば本当の精神崩壊状態だとまったくこっちの話は聞いていないだろうし

なにもこっちからの呼びかけもなにも伝わらない伝わっていないとわかる

(耳は聞こえているのに意味として成り立たない)

 

そういうことを思い出したんだけどこれは単なるメモでいまはどこにも

つながらないがいつかつながるかもしれない

 

オレは「人間のフリをしている」とか

「あたかも相手が人間であるかのように接する」ことに興味があるのです

 

相手が人間であるか何であるかわからない場合には特に

つまり

人間であるかどうかはまず疑ってかかるという方針みたいな