遠いところの人たちのことを想う

というわけでオレは「自他の区別がつけられない人間」を

コバカにしてることでなんかのバランスをとろうとしていたが

しかし一方で

その「すべて自分にひきつけて考えないと理解できない」ような

ことは全ての人間にも(ある程度)共通する特質なのかもしれない

とも思うようにもなった

つまり

 

それはもちろんオレが一人でそう思ったのではなくさえぼう先生の

オッペンハイマー」評をみていてそう思ったのだが

 

まあオッペンハイマーという人が知性と理性はある人間で知能が高い

のであるが

しかしかれは物事や物事の起こったその影響や

因果関係などを自分の周囲の小さい世界でそれが起こった(のかもしれない)

というアナロジーにひきつけてではないと理解できないのだ

という映画上の図式を指摘しており

それはかれが遠い日本で原爆がおちて悲惨なる地獄絵図がそこにあらわれた

ことを想起しない

かわりに自分の身の回りの人が身体が融けるみたいな火傷みたいな幻像をみたり

するんだって

つまりそういうことで他人他者遠く離れた人たちのことは

想像も共感もできない

 

 

というんだがそれは誰でも遠くはなれた人たちのことを

その苦しみを真に理解すること共感することはできないんじゃないのか?

そういうことに敏感でありすぎると馬に同情してくるっていくニーチェにも

なってしまうしガザの窮状をおもえばイスラエル憎しで憤怒のあまり食事も

とれなくなってしまう

まさに

 

だから社会と人間のかかわりというのは

つかずはなれずくらいをキープしていないと

理性というか正常を保っていられないわけで

そこがたぶん一番難しいところなんだろうと思うわけだ

 

あらゆる不正をみてみぬふりできないようなASDの人は

やくざっぽいやつが電車の中でタバコすってたら

殴られるリスクを冒しても許せないから注意しにいってしまうし

それは自分ではその距離はとめられないわけで

 

もちろん倫理的には注意しにいくのが勇気で正しいのだが

しかしそこでテロリズムのごとくになぐられたら死んでしまったという

こともあるわけである

生存を第一に考えると社会正義を成り立たせるよりはみてみぬふり

のほうが生存できるのである

 

しかしそういうことをつづけているとテロリストがいい目をみる社会になり

なんというか

犯罪のはびこる

銃規制もできないような

アホ国家になってしまうのである

 

とかね

 

方向がズレたが

とにかく

 

オレはその「自他の区別がつけられない幼稚な大人」を

描いていこうかなといま思っている

幼稚だっていうのはオレがそう思う事であり

万物ユニバーサルな真実ではない

そんなことは知らない

オレがどう思うかを反映させるだけさオレの書きものなんだからね