映画「PAST LIVES 再会」の感想つづき

PAST LIVESの感想つづきである

 

アトロク2での宇多丸評をきき

尼は泣き坂はまだ中途だが

オレがどこのシーンにいちばん惹かれるのかわかった

それは

NYについたばかりであろうヘソンが

雨ばかりのNYで

ひとりでファストフードでメシにしている(イートイン)

ところのシーンひとりでいる口にドッグみたいななにかをくわえている

それを斜め上のマドの外あたりから撮影しているショット

 

彼はNYにきたとてどうしようもなくてしかもノラ=ナヨンの夫婦に

いくから会おうと連絡しているにもかかわらず「何で来るのかな>?」

「観光?」とか言われている立場である(ナヨンが実際に何を思ったか

にかかわらず)

 

かれは絶対うまくいかない関係性であるにもかかわらずただナヨンの

顔がみたいだけなのである

それでその後どうにもならんこともしっているのである

 

それでもひとりできてしまって

一人で観光でもなく行動している男のアジア人がNYでいかに

たよりなくよるべなくみえるのかがそのファストフードのシーンである

それはオレだ

オレがなんどとなく

これまで何度もあじわって

おそらくこれからも場合によっては何度も味わうであろうとかいの

都会にいて誰ともつながっていない人間のシーンである

 

それを「かなしみ」とかいうのはすごくもんきり型であって

しかし実際に「かなしみを具現化したもの」であることもそうであって

 

哀れというのは違うと思うのである

哀れはおろかさが入っているが

かれはおろかであったとしてもそうしないではいられないのであるから

 

というかかれにしてもそうしないともうそこから一歩も

うごけないのである

(ナヨンはかれが来ても来なくても動ける)

 

そういう非対称性であって

まあユダヤアメリカ人のだんなもナヨンがノラがいないと生きていけない

わけだが

 

なんかこう~

そういう非対称性についての映画なのかなと思うのである

もうヘソンからみてナヨンは上を見上げて仰ぎ見る存在というか

オレなんかがいてもいなくてもなにもかわらないことを

顔をみてみせつけられるだけのことなんだと

 

そういう感じはオレはオレのものとしても感じることができるので

すごくマジそれ痛いし痛いね

と思ったんだ

 

そのくらい大きいなあと思いました

 

それこそなぜThe Breakfast Clubがオレにとってのオレの映画なのか

といえばあそこにいるやつらは全員がオレだからということなんだ

それは感情移入とかではなく

まさに憑依であって演技としてあのような行動がオレもまた同じだ

同じことを考えおなじように思い

あの学校の校舎に誰もいない休日であればおなじように動きたくなり

女子がいれは女子にはなしかけたくなるのである

 

それは感情移入なんかよりもっと強いものなのである

 

おなじように「みなに幸あれ」で古川琴音さんがさいごについにあの

村のやつらと同じようにいけにえの体を器官を縫うシーンで

あそこまでにいたってオレも最終的にはおなじようにあの村の

一員になってしまうんだろうきっとそうとりこまれる的な・・・

と思ってしまったところでもうその映画が一生わすれらんなくなるわけである

 

そのときオレもそうするだろうみたいな気持ちが

ぐわりと湧き上がる瞬間が映画の

そのおそろしさみたいなことだと思うの代理体験としての映画で

あるのにもう代理を越えた力がおしよせるような津波のような

とりこまれる