好きな場所と土地 と「飽きる」問題

まあ父パンダの名が「パパンダ」でちいさいのは「パン」って名前なんですが

それはどうでもいいや

 

さてしかし旅からかえって思うのはいつもそうだが

「精神的距離」空間のひろがりについてなのだが

もし「いつもそれをみているとだんだん飽きてくる」のであれば

それはどこに移住してもおなじことが起きるのではないか

 

別レイヤーとして「川が空の下でひろく流れている光景が好き」なのは

あって

それは事実オレのなかに感想としてあるので川が好きである

山も好きだが山は見える場所にいないといかんので

山そのものにいってしまうと山がみえない

 

すくなくとも実家のあるあの場所は山もなければ川もないので

最悪といえる)(空疎ともいえる)

あそこで死にたくないというのが大きい

あそこはオレにとってオレの場所ではない

マジで

 

そういう強い気持ちがあるなら移住も考えるにきまっている

どうせなら好きな場所好きっぽい場所で死にたいものだ

と思うだろ

 

空が空間としてひろいのであればそれは

人間の有限性とこの世界の無限性(への開かれ)を感じさせて

いいのではないか

 

だから海がすきな人は海が好きなんだろうけど

オレは空があってしたには大地と川があるのがいいねえ

 

あとは気候だけだ(’これはどっかに別に書いたからもうかかない)

西岸海洋性気候がいいです

現実のではなくて「疑似」で十分です

ケッペン

 

そして最大の問題はオレの中にあって「飽きる」ことなんだが

それは

それはなんだろうなあ

 

といつも考えている

オレは飽きることが本当はこわいしそんなことは

起きないでほしいのだが

それでも実際「飽きてるなあ~==」と思うことはしばしば

あり

それは旅のおわりにそろそろ家に近づくときに

もうこの電車にのるしかないというような選択肢の

どんどんせばまっていく=あたりまえだ家に向かえば

最終的に道は1つになるのであって他の選択などない

 

そのときに絶望をかんじるわけだああもうここにいくには

この道しかないのかと

 

それはいつもみている道なので飽きたも飽きたのである

 

だがだからこそ「ここに愛着」があってだから「落ち着く」とか

「安心」じゃないのかと思うのだが

 

オレがどうも「安心」「落ち着く」「いつも同じだから」というのが

大嫌い

ことが

あるのである

 

そうオレはそれが大嫌いだ

なんせ奥静のババが「ここは知ってる顔ばかりで安心して暮らせる」とか

言ってるときにこいつ死んだらいいのにとマジでおもったことからも

わかる

 

つまり「同じ顔」が「永遠におなじ顔」でいるわけがないのだる

ぜんいんとしとって事故か病気あたりになって死ぬわけだし

自分も加齢していくのに

同じ顔とかおなじ環境とかおまえ

永遠に生きるとでも思ってるのかよ

アホの極みで社会の害悪だ

くらいにオレは怒りをこめてこういうやつを悪罵したいのである

 

うーん飽きる問題とこのオレの感情の高まり悪罵は

別の問題?

 

オレは「飽きてしかるべきである」と思っているのか?理想として?

 

まあそれをたしかめるために移住の前段階としての「1年暮らしてみる」が

したいんですけど

したいんだよ

マジでそうしたいわけですそうすれば1年の四季のそれぞれがわかるじゃないです

かあ~=

 

春がくるのが「ちょっとでも春はうれしい」のは「冬が厳しい」からであって

じゃあ

「冬がきびしくない」と「春もうれしくない」のか

実際この亜熱帯静岡県では「冬にきりっとした気温」のほうが貴重で

春になると「だらけた湿気のものを腐らせる温度」になって

虫もわんわん

これがオレにとっては地獄みたいなもんで

でも北海道はこっちよりもっとアブがたくさにるよ!

たくさんいるよ

それこそ中標津でロッジにとまったとき

すごかったよ

あれは牧場地帯だから???

そういうことって暮らしてみないとわかんないんじゃないの?

べつにアブが大嫌いなわけじゃないけど

あのくらい車に侵入されるとちょっと迷惑だわ^

 

とか朝から考えている

 

きょうよるに大須いって映画みるかどうか考えている

 

車でいきたい(もう連ぞくしてあの夜の帰りの電車と家への歩きを

体感したくない)

 

とめるのは鶴舞公園あたりでいいと思う