図書館アイ
アルケミスト叢書
プロット
エイミージョーンズ
(後記
ただしくは「アルケミスト双書」です!!双です!)
アルケミスト双書
であるが
この叢書の中でおもしろいとオレが思っているのが
エイミー・ジョーンズの
『物語のかたり方入門』『物語のつむぎ方入門』
の2冊である(買えばいいのに)
いまは図書館コピーを家でながめている
かたりとはナラティブであり
つむぎとはプロットである
いろんな本で1人称とか三人称とかみてきたが
これが一番わかりやすい
視点人物っていわれたほうがわかりやすい(ときにはそれは人物でもない)
しかしなんらかの「視点」がないかぎりはおはなしはつくれない
最低限だれかがあるいはなにかが語っているのだ
ところできのうかってきた(真鶴の道草書店でかってきた)
本が2冊あって『病と障害と、傍らにあった本。』『地下アイドルとのつきあいかた』(ロマン優光)なのだが
いずれも書名も書影も実物もはじめてであった(ので買った)
ロマン優光氏は大昔から(ロマンポルシェが出てきたころから)名前だけしっているがWEBでコラム連載長いのも知ってるし読んでいるしニュートラルに観察と評論する文章が大好きなので著作もかった
病と障害とはそれはアンソロジーなのだが鈴木大介氏の「本がよめない)(高次脳機能障害のとき):があったので買ったといってもよいが全体に疾患とか精神的くるしみのことがあるからという話であって
これは最近ずっと考えているそれなのだが苦しみ(精神的)があって社会的にも孤立しているときに他者つまり人間の直のことばはさっぱりひびかない(それは生身の人間は意図をもって近寄ってくるからだ!)
のに
ラジオや本など「本人が自分から聴きにいく読みにいくもの」は
響くのである
ということを考えている もともとはあやねる(佐倉綾音氏)のラジオでの
発言があってこそのはじまりなのだがどこのなにを見ても読んでも同じことが
あちこちにみうけられるのである
それこそオレがリハビリテーション従事者だったときの実感も
「本人がモチベをもっていればもうどのようにでもうまくいく」疾患そのものが治らなくても生活はたてなおせるのである本人がモチベさえあればね
問題はそれをいかにしてということだったのだが
いまおもえば外からってのはムリの難題だったわけで
オープンダイアローグのようなことくらいしか方法はないのかもなあと今は思う
次第である
そのくらいかかわりってのは他人を外から変化させるのはできなくて
他人からの影響を受け入れること(そしてその結果として変化すること)はできるけど
ここにあるのは変化の当事者は外からベクトルが向いてくることをはねかえし
内へと引き入れるベクトルは自分でできる
ベクトルの向きが同じなのにこの2つは全然違うってことでね
映画「どうすればよかったか?」で
姉が統合失調症ですごく増悪しているときでさえも
耳になにもきこえていないわけではないのである
反発して跳ね返すことにエネルギーを使っておるように見えるのである
わかんないけどね
まあ脳内では異常発火(神経の)による妄想がうずまいているといわれているが
いわゆる人間らしいリアクションというのが入院治療のあとにあらわれた
ときには顔も違うしなあ
顔ってすごい
なんかナミビアの砂漠をもういっかい年内に観たいような気もするのである
顔がみたいから
(しかしもう新宿渋谷京都出町座でしかやってないので難しいのだった)