現実に資本主義をぶっ倒したいのだが
そのあとに実現すべきことがイメージとして
ない/ある
ありますがじつげんが不可能に見えるわけだ
あるけど理想的すぎてひとりの暴力で倒されそうだ
あるけどどうも共同的なルール順守が必要そうだ(そしてそのルールを
破ったらペナルティがあるのだがそのペナルティを無視する輩が出てきそうだ)
そういう感じでなかなか資本主義にかわる「なにか」が
実現できない
そういう「ひとりのファシスト」がする行為を
制限する方法がみつからないのだ
なぜなら自由に対立するのが制限であって
制限は誰にもおなじくかかってくる傘なのだが
それをぶったぎろうとする力がでたときに制限をかけられるほどの
強い力であれば
その強い力は日常的に我々の自由を制限するであろうから
結果的に自由とはいえなくなってしまうというパラドックスである
このくらいのことであればもう既にそれについてたくさん考えた哲学者が
いそうである
なんしろ
それに似ているのは「最小国家実験」であって
https://law-kanazawa.info/wp-content/uploads/2019/02/2018Murakami.pdf
[]リバタリアンの想定する最小国家は個人の権利を侵害せずに成り立つのか]
という論文である
まあでもそもそもが
警察・軍隊
について「そんな暴力はこっちの暴力でうちたおしてやるよ」
という民兵組織があらわれて
内戦になったときには
その民兵が勝ったらばその次はそいつらが国家をなのって民兵だったのがただの正規軍になるという連続性である
警察・軍隊のない国って
なかなか難しい(近代では)
ないほうがいいとオレは思うのだがこれは素朴な理想論であって
ないとどうなるの思考実験は簡単に終わってしまう
ひとりのらんぼうものっていう像だけで
ひとりのらんぼうものを
皆でころしていいにするという映画も
あります
フィクションでいろいろな方法をためしている
過去に
既に