映画「イニシェリン島の精霊」について

京都シネマにて鑑賞

正直

オレはそんなに簡単にのみこめない

だから

鑑賞してから

いろんなところで批評や感想を見てきた

 

これから時間をかけて

考えていきたいがおりしも

アカデミー賞の発表速報中で

イニシェリンは

助演女優を獲ることになっている

メラニーさん予想ではね

 

さあ

1つでいいからとってくれー

(結果 EEAOが7部門SWEEPしていったのでイニシェリン島は無冠でしたね=)

 

まあいいんです

 

さて

 

ここから映画感想

感想なので批評たりえない

オレにはパワーが足りない

さえぼう先生の寄稿したパンフも入手できない

他の方法で1923当時のアイルランドにおける女性と職業と司書(だったっけ?)について考えたり調べたりするしかない

ちがった!キネマ旬報のほうだった!それならまだバックナンバーさがすことが可能だよかった(’パンフのほうがはるかに入手しにくいのである)

(今としょかんへ歩いていってきた読んできた 歩いていける位置はいいね~~)

(つまり「アイルランドの1921条約に不満だったアイルランド国民が2派に分かれて内戦になったわけだが・・」アイルランドはナショナルアイデンティティに揺れているわけであるそんな中で図書館というものが国家のバックボーンといいますかアイルランドアイルランドたる所以を確保するための橋頭保みたいなものでそして女性の職としての司書の注目度があったという話であった)(ひとつの国家の近代史はどの国をみても濃いし知らんことはいくらでもある・・・)

 

 

さて

 

この映画はつまり宇多丸氏の見立てによれば(参考・ムービーウォッチメン

「人間は変化できるのか」(宇多丸氏の語りだと「変われるのか?」という表現)

である

それは監督であるマクドナー氏の作品に根底に共通しているテーマだという

 

オレはかんがえてたんだけど

それは相前後して見た「ちひろさん」におけるちひろさんの変わらなさ(変われなさ)と映画的困難についてのことを考えていたんだ

 

いっぽうでこのイニシェリン島において

コルムとパードリックの男たち(とパードリックの妹であるシボーン)は

変わっていく

いやおうなしに変わっていく

変化している

 

それは矛盾のようでもあるし逆説的でもあるのだが何も変わらない変化しようがないようにみえる田舎の自然しかない土地の人間性がダメなやつらしか住んでいない島において

そういう閉鎖の島だからこそ

変わるしかないのではないかともまた思えるのである

 

一方でちひろさんは現代日本(平成~令和)に住む人間でいくらでも意思の力で変わることができる環境にあってだからこそ何も変わらないともいえる

ような気がするのである

こじつけかもしれないけれどオレはそういう仮説の組み立てで考えている

 

さてとりまイニシェリン島におけるやつら(’主に3人)の変化についてまずは筋書きの様子から描かねばなるまいて

 

つまり

コルムはパードリックよりも年上なのである

そして

コルムはおそらくは島を出てフィドル演奏家として巡業した経験もある(家に面とかいろいろ飾ってある)

だからパードリックよりも「知性」がある

そして妹のシボーンもまた「読書」を通じて「知性」を得ている人間である

 

そしてこの島にはなにも「知性」につながるものがない

人間も

人間いがいの「資産」文化資産もない

なにもない

いるのはロバ(「怠惰」の象徴)や牛や馬だけだ

 

こういう面とかロバとかの話はいま図書館でよんできたキネマ旬報による

 

さてそれでマクドナーはずっと友人どうしが仲たがいする話を

描きたかったんだそうだ

そして暴力

 

内戦と友人だった男たちの間の暴力は呼応している

 

しかし同時にコルムはパードリックを愛してもいるし

妹だってべつにパードリックのことを愛していないわけではない

 

しかしそれでもコルムは自分の人生を総決算するための時間をつかいたいし

妹もまた自分の人生を職をつうじて社会における屹立をなしとげたい

 

パードリックだけが「自分の人生」がなにもないのである

ないというか

そういうことを考えたことがなく

そういうことを何か新たに考えつくということもできないのである

だからこれまでやってきたことをつづけていく(牛と馬とロバの世話をして乳をしぼって牛乳を売って・・・)しかない

変化はない

変化ってなんだいそれおいしいの?_てなもんだ

 

ちひろさん

 

ちひろさんは空っぽだ

なにもない

意思というか「自分の人生」をこれから組み立てていくとか

なにかを成し遂げるとか

なにかの人間関係を成就させるとか

生活を構築するとか

他者と関わってそれによろこびを感じるとか

そういうものがなにもない

仮初(かりそめ)のものしかない

その場で出会う他人に親切にすることはできるが

本質としてもう他人を愛するとか他人にとっての愛される存在になるとか

他人と長期間の関係性を仕事の上で構築していくようなことは

なにもできない

たまにセックスしたくなることはあるがそれは動物としてのセックスで

あって

なにもそこに愛はなく

感情もない

 

そこから変化することができないのだ(他人がなにかそうして変化みたいなことをしていることは知っているが自分はちがう)

 

どうしてもそのような存在について考えてしまう

 

このような「変化を求める者・変化をそもそも希求しない者」の

境目は大きく深い裂け目であって

どうしてもなにもそこに理解を相互に産むことは不可能で

不可能だ

 

だからイニシェリン島では暴力(自傷行為)の末に家が焼かれるのである

 

スリー・ビルボードでもよく焼かれていたね

 

ちひろさんにおいては「逃避」しかない

愛情に満ちているような関係性が生じたらそこから逃げるしかない

×の

別の場所へいくしかない

永遠に放浪していくしかない

定住できない寅さんのようにさすらうしかない

 

どちらの映画もオレに分からせてくれる

変化し得ない者は永遠に変化しないし他者の関わりはそこでは

無力である

ということだ

無力であるならばその者を変化させようなどと望まないほうがいいのでは

ないか

 

そこまでを思ったよ