楽しく生きるモチベーションの維持のために必要なものは

労働なんかじゃないんですよ

オレは労働(賃労働)を生きがいとかやりがいにするのは

もうとっくにやめている

モチベは

「たのしいこと」からしか生まれない

それはオレが温泉が好きでたのしいから行きたいと思う気持ちや

女子がうつくしいのを眺める(映画とか)のとか

そういう楽しさがどこにあるのかを設定することからしか生まれない

 

だからオレのいまのモチベは「たのしい脳の運動としての書くことを

生業までもっていくこと」と「北海道移住」を考えることである

 

そうそれだけ

 

それが大事なのだ

 

税のことを考えているのは「税が 書くものに出てくる」からである

 

北海道移住はマジでマジに実現する方法とタイミングをいつも考えているよ

 

そのように「いつも考えていてもそれが楽しい(考えることそのものが)」

のが大事であって

ストレス時にもそういうことを考えることでどうにか

やっていきたい

(ストレスとは別のことを考えるってことです)

 

方法は重要だよね

 

ストレスレベルの現状

間印紙日

毎日書いてもしょうがないが現在時点での

ストレスレベル

正直「10年はやりたくない」のであるが

「つとめて3年ならやってもいい」くらいではあるが

他人の言うなんじゃらに合わせるのは面倒くさいしかし

3年たぶん合わせることが労働にくっついてくる

だろうねそれはストレスだ

どのくらいのストレスかというと

もうちょっとでやんめとしたいくらいだが

仕事のラクさ(とくに判断に困ることもなく責任もない)から

考えるに他におなじような労働がなかなかなさそうなので

レアであるという稀少性を加味すれば

なんとか時給のために労働をつづけたいですねと答えるくらいの

ストレスレベルである

かろうじてメリットがうわまわるということだ

 

しかし倫理とかその他の快適さにおいてこのストレスが

100%純粋な「惡」であることそのものは間違いないので

それは特筆すべきこととしてシルスマリア

 

さあ

ストレス解消に

夕食くった直後だけどねましょうね

寝ます

おやすみい

はあ

どうも図書館に本かえしたらもう雨だし

風呂いくきがしないので明日にまわすか

とか思っている(これから夕食をくう)

 

ぱっとしない人生とかどんとこいだが

いやなことばかりの人生はいやんだねえ

 

あとどうもいろんな人がおなじ問を考えている

ようだす

 

労働のあとにスタバでメモつくりしてた(かえす本)

鹿島茂のやつで「バルザック戦略」もよかった(仏文研究者として

ライバルが少ない)が

だんだん鹿島は19Cフランスの世俗の風俗の専門家になっていくのだった

あと吉本隆明共同幻想論」の話が

例なのに

例以上に強く大きく書かれているし引用もたくさん

その中で「中心」になる対幻想

それは家族のはじまり・・・というメモをつくっていた

 

MMT講義(MMT現代貨幣理論 を底本として)

では租税について原初からを考えるのが

やはりみんな好きだっていうこと

がね

気になるね

租税はどんな国家でもなくならない・・・

問題群(列挙)

だから

・社会的Issueに「低俗」「意義ある」などの区別は

あるのか????

・「誰にとっての」社会なのか?

全員が参加している「社会」がはたしてこの世にいままで一回でも

実現しているのか?

 

とか考えてしまうし

・この世界に過去も現在も「変わりないゆるぎない定理正しい定理」が

いままでかつて一回でも存在され証明されたことがあるのか?

ってことにもなる

・自分の命も他人の命も大事ですとかいって他人を戦争でころしたならばその大事ですの言はウソでありましたということになる)(大事なものをころしたりしない)

(自分の命のほうが他人の命より大事ですっていうならそうだけど)

・ヤフーニュースが芸能人ゴシップ流すだけというなら

じゃあ誰のゴシップなら「重要だ」といえる>?

それとも「ゴシップ」は誰にとっても重要なものではない

とするならば

じゃあどうして「ゴシップ」はそんなにもページビューをあつめている

のだと思う?低俗なものこそが魅力だっていう単純なもののいいかたは

説明を諦めていると思う?

・なぜ「絶対に彼にはなれないし見本や理想にすることも凡人とはかけはなれすぎているため参考にさえもならないような大谷翔平」を毎日ニュースとやらでおいかけているのか>?

そんなに偶像が好き>?

だれか偶像がいないと我々は生きていけないの???

 

みたいなね

4月18日(木)

はあ~~木曜まできたぞえ

YJと週刊文春かってきたこんしゅうのやつは

宇垣総裁もあってしかも橋本愛さんなので当たりの週である

しかしなんだなあとも思うのね週刊文春に世間のすべてがあるとはまるで

いえないけれどもそれこそ「ヤフーニュース」のラインナップが

すごいくだらないもので占められていて芸能人のなんたらとか

政治家のスキャンダル的なものしかないといってもいい

ような体たらくでまさにアメリカンとかイギリス(それ以外しらない)の

イエローペーパー並みのクオリティなわけだが

「興味本位の低俗な記事の多い新聞」

そうそう

アメリカだとスーパーのレジまわりで売ってるようなね

日本だとキヲスクの夕刊紙だったんだけどね

もう絶滅した?さあねえ

 

それでさあヤフーのそれがなぜそうなっているかというと

おそらくは(推測)ページビューをみていて何ならあつまっているか

をみてみたらそういうのが皆がみているとわかったので

そういうのだけにするという編集方針になったわけじゃんね

週刊文春だって同じじゃんね

みられたいから低俗なものをあつめるー低俗なものを好きな日本国民は

たくさんそれを観に来るだろう

 

という救いのないやつである

大衆の数をあつめる目的だとそうなる

 

そうではなくて「より大きく強く希望している」ような

オーディエンスを集めるのが目的であればそこでは

クオリティを第一に考えてニュースの意義とか考えるだろ

それは「観客が考える社会的意義」と「ニュース供給側の考える

かれらがそう考えるような意義にそった記事」である

 

それこそさらしる氏が指摘(推測)していたが

ツイッタージャパン社がかつてのスタッフがいたころは

人為的にハフポストの記事とか積極的にRTつけてコメントつけて

拡散していたが

いまはそのときのスタッフがまとめて解雇されたので

そういうことはない

つまりそのときのツイッター世論はツイッタージャパンの当時の社員

によってつくられたつまり捏造された世論だったのだ

(その証拠にやつらが解雇されたらハフポストの記事のツイートの

インプレッションだだ下がりだからだ)

 

という推測があったが

ある程度あたっているのではないか

 

だから「観られている数がおおい」ことが事実でも

「だからこのニュースは社会的意義がある」とは言えないってことで

意義とは誰がその意義を考えるかであって

「保守的主義なので社会をこのままよいもの守っていきたい」やつは

変革のニュースは意義がないのでとりあげるなというだろうし

「革新のすすめる賛成」は逆だろうね

保守反動もあるだろうけど

このように二分法でやるのは乱暴すぎるがどっちの陣営からしても

恣意的に気分で判断して賛成反対しているようにしかみえないから

そこには「変わらない基準 価値 根底の」は

無い

ことになる

 

無くてもいいのかもしれないけどさあ

それじゃあ困るじゃん

実際的な意味でさあ

これからますます生殖治療とか尊厳死とか問題になっていくんだからさあ==

(だからそれを探すのがオレの基本的な立場であり考え方である)

まあそれでコミュニケーションがさあ

かならず必要になるというのはオレのようなものでも

日銭を稼ぐ労働をするときに雇われているので

その場でコミュニケーションが必要になるし

なんといっても

何がその場でうーん要求されているのか?というと高度すぎるが

何がその場で交わされているのか^説明?

あるいは誘導?あるいは命令?あるいは質問?

それらが幾分まざりあったもの?がそこで行われているときに

そこでそれによる必要のあるコミュニケーションが必要な

わけじゃん

具体的に例示すれば3人いて2人だけがずっと2人で話していたら

3人目は「疎外されている」のかそれとも「離脱している」のか

どっちにしろまざりあわない場合でもときどきたまに

「参加(あるいは茶々をいれる)」が必要かもしれないと思うじゃん

なぜならそのほうが「疎外されてる感を弱める」とか

「参加している感を出す」ことができるかもしれないからです

別に無理して合わせているわけではないそんなにおなじ同士感を出したいわけじゃない

ただ適切な程度(あるいは最低限度)に友愛(敵意がないこと)を示す

必要もあるし

そんなもんです

そんなもんだろう

みんなそんな感じでやってんだろ?

 

とはいえこういう「3人いて3人目」のシチュにおいて

なんもする気がしないこともある(オレにはあった 若いときだが)

わけで

そういうときには「参加しない」をつらぬくわけだが

 

今思えば「参加する」のほうがちっと楽しかった可能性もあるな?と

思うわけですがまあ過去のことですから変えられないね

名古屋出張のときだけどね

 

オレだって過去にはいろんな「ああしとけばよかったかもなあ」があるわけで

むすうにあるね

それはオレの財産なので着実に使っていくよ

 

とかくコミュニケーションはどこにでもあらわれる妖怪のようなもんだ

翻訳というキーワード(技術を情報に翻訳するってつまり「説明」じゃんね)

もあるしね

まさにコミュニケーション

そのもの

コミュニケーション(他人との間にある)

だからつまりオレが他人がいて困るなあと

思うことはすべてが過去遠いところ昔にあって今もある

疑問としても「コミュニケーションなんて他人との間に

成り立つわけないじゃん」(なのに世の人はなぜ成り立っている

などと思っているのか!?)

ということはあれだ

コミュニケーションが「他人とのかけはし」であり

それは成り立っていてもいなくても不十分でも

そこにあるし機能としてあらまほしきものであり

あってほしいものであり

ないとしても

象徴的な機能(意味ではなく)としても必要だ

ってことがまずある

挨拶

 

あいさつは「敵意のないことの証明」であるし

それって意味ではなく象徴じゃんね

 

それでさあ

 

コミュニケーションにつかわれる「言語」もまた

くりかえし意味の変容を起こし

一定のままでいられず

しかし「他人のそうしているものをこっちでも使ってみる」こともあり

試してまた変えて

 

その結果としてたまに「うまく通じている」かのように思うこともあり

それは他人のリアクションをみて感じることでしか微修正もできないのだが

 

それをしているのがChatGPTだ

とな(人間のリアクションをくみいれるAI)

 

ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と言ったときに

それはルールがそのつど生成されるゲームだのように言った

のだとオレは思っているのだがまさにルールなきゲームしかし

そこでそのつど発生生成するルール

にのっとってゲーム(勝ち負けのある)が行われている

 

我々はそれなくして生きていけないのである

 

なんてこったい

 

他人なんていなくていいしコミュニケーションなんて成り立たないと

思っていたのになあ

 

しょうもない

 

まあしょうがないね