○○して後悔、と、○○しなくて後悔、だと、しなくて後悔の方が一般的には悔やみ℃が大きいですよね〜。まあ犯罪とかは、して後悔なわけですけど|〜・。
「してはいけない」
と、「しなくちゃいけない(しろ)」ってことは、
それぞれ、「世の中の大体過半数の人がそのように言っている」からそうなのだと思われているのであって、「ルール」ではない。まあ中にはそれをルール化しなくてはいけないとされてルールになったものもある。成文法とか、非成文法とか、いろいろ。犯罪というのは一般的には合意の上で成文化されたルールに従って禁じられているわけで・
今日のこのあたりはアンカテさんの年末のエントリを読んで思ったことを書いているわけだが。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20081228
の、「合意と、合意しないことと」を読んでふと思ったくらいのもんで。
さて犯罪のように「するな」のこととは逆に、「しろ」のことは、成文化できない。まず、場合の数が多すぎて、書ききれない。また、よいこととされていることであっても、必ず全員がそれをしなくてはいけないルールに従う義理まではないわけである。似たものに義務というルールがあるが、たとえば納税・労働、こういったものは「できない」人もいるので、「しなかったらそれは犯罪」とは言い切れないのである。社会は多様性に満ちているのである。生まれた条件も様々なのである。だから、善意を押し付けるのはやめるべきである。善意に限って「施す」という動詞がつかわれる。施すものというのは、治療とか肥料とか善意とかである。全部おしつけである(もし受ける側が施されたくないと思ったならば)。
 そう考えると、何かを人がするということは、外に、自分の外に出すということであるので、自分以外の領域への侵犯であるなあ。なにかをするという行為そのものが、まず自分以外の外部への出先機関
 そういうことの中に、「いいとされていること」「わるいとされていること」「いいかわるいか、どちらでもないのでスキにしたらいいこと」「すべきであるが強制できないこと」「すべきかどうかは個人の判断によること」などがあるのではないか。
 たとえばごみの分別は、考えかたによっては、悪でもある。資源リサイクルが絶対善だなんてことはなく、たんなる労力の無駄遣いで、プラでもなんでも高温の炉で燃やしてしまったほうがいいのかもしれないのである。その結果が地球にわるいかどうかなんて全然証明されてないのである。かえってリサイクルとかいうことのためにへんな機械をまわす電気をつくる石油の浪費ということもあるのである。
 
 まあ本当は別のことを書こうと思っていたが、案外「多様性あるから全員に同じルールは適用できまい」ということが出てきた。難しいんである。収入ない人は納税できないし、なんで収入ないとかいうと労働できないからである。でも生きてるんである。
 そういうわけでオレも生きてるけど、できないこともあるしできることもあるだろ。できないことはしません。

 今年のアニメベスト5(個人の好み)
紅・ARIA3期・ひだまり2期・カイバとらドラ!
でした。さっき風呂入りながらセレクトしてたら自然に5つ出てきた。どれもすばらしい。金があったら全部DVD買いたい。とくにカイバは買いたいなあ。そのためだけに高画質のTVほしいよ。1回だけ見た有機ELのTVほしいねえ。ロト6当たったらね。
 にしても2008はARIAが終わったことが最大のニュースだったかなあ。いまでもサントラ(Tre)は、よく聴く。
 紅の最終回はいまだに見ていない。見るべきだと分かっているがようみれん。いや、みるけどね。そのうちに。
 ひだまりのいいところはいくらでもあるが、結局愛なんだ愛。それも女の子だけの愛。女の子同士の愛で、しかも多分これは百合じゃないんだ。そこがいいんだと思うんだけど。しかも友情でもないんだよきっと。
 とらドラ!は、まだアニメ自体が完結もしてないのでなんか言うのは早いと思うけどこれはひょっとして純文学なんじゃないかいな。
 で、さいごにカイバだが、やっぱり大きい音で大画面でみないといかんように思う。オレはこれ全部PCの小さいディスプレイで見て、それでもとにかく違和感からはじまってどんどんひきこまれていって、出会えてよかったと思う、詩だと思う。意識がボディをのりうつっていくというSF設定を、うごく絵でみているだけでクラクラする。それだけで詩だと思う。ありえないイメージが目の前にあらわれるのは詩をおいてほかにないからだ。とか。思った。