100121クローズアップ現代「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」 を一晩たってから考える

id:Imamuraさんの昨年10月の書き起こし
http://d.hatena.ne.jp/Imamura/20091008/help
に、大変お世話になったひとりとして、この問題をまたとりあげたクロ現について日記に書いてのこしてみたくなった。いろんな人がいろんなことを考えていることが「在る」ということが、なにかとっかかりにならないものか。他人との関係。
さていろいろ気になったことはあるのだが、
・寄付
・社会
・助けを求めたらそこでおわりだ
みたいなことが印象にのこった。
 ・そこでおわり
たしかに「烙印」というものがある。いちど「転落」したら、「転落した人」ということが評判にのこる、みたいな。しかし「生きてさえいればいいんだよ!」と他人から言われてもなかなか「そんなこと言ったってあんた当事者じゃないじゃん」である。生きてさえいればいいというのは本当のギリギリであって、本当のギリギリというのは孤独な餓死の寸前のことである。人間の精神は人間の肉体と不可分であるので、腹が減れば考えもかわる。イラつきをとおり越すと、どうでもよくなる。ホームレスが風呂に入らないで自分の匂いに平気になるのはどうでもいいからである。ちなみに入院老人とかが自分の匂いが気にならなくなるのもおそらくはどうでもいいのではないかと思う。オレ当事者じゃないから知らないけど。
 なぜ助けを求めないのか?という質問は、外部からもたらされるものであって、その声はぜんぜん当事者に届かない。問題の立て方が間違っているのである。
 ・社会
ではどのように問題をたてるといいのだろうか??
 オレが考えるに、社会というものが彼に(ここでは便宜上彼としておきたい)対して「何ができるか---そのできることを彼は受け取るのか、受け取りたい?どお?」である。北九州で牧師さんが炊き出しとかのホームレス支援活動をしているのを画面ではうつしていたが、あれは「食事は提供しますのでほしいならとりにきてください、そしてこの食事には一切の条件がついていません。ほしいならば受け取ってください。」だけである。つまり、ほしいなら仕事しろとかこっちの「教育指導を受けろ」とかはぜんぜん言ってないのである。んじゃないのか。だからあの炊き出しにはホームレスが集まる。
 あのNPOも社会の一断面である。
 しかしいつも炊き出しだけで頼っていても死んでしまうのであるさいごには。どうにかしたいのであれば相談にのる。誰かが相談にのる。相談にのる組織というものがある。どこに行ったらいいかわからない人には、どこに行けばいいか教えてくれる人もいる。その人に出会うか出会わないか。出会わない方が多いのではないか。
・寄付
金をまわすしくみも勿論重要なことだと思う。平野さんが行っていたことは役にたつ。善意がうまれたならばソレを形にしてまわす仕組みが大切である。善意を善意のままにしてても腹が満たされないのである。
 しかし書いていて思ったが、こういう善意が「他人への知識の伝播」に使えないものだろうか。
 ネットで「就職」の検索に「仕組み情報」がひっかかるようにするような。
 仕組みというのはいったいどうしたらいいのかわからない人にとっての助け船である。まずなにをしたらいいのか分からないのであれば、そこからである。
 分からないのは自分の状況がわからないというか自分の使える資源がなんなのかわからないとかそういうことを含んでいる。金がとにかくないんだ、とか、介護で困っている、とか、どうも自分が精神的になんとなくおかしくなってきているようなんだ、とか。いいたくないけど、ほっておけない自分のTopicを。それを他人に向かって開示できるか---開示する場所があるか。
 
 とりとめなく考えてみたので当然まとまりがなく、ないけど、
 他人とのつながりが「消えた」のかなんなのか、地域という名のコミュニティの消滅によって、コミュ力なくても生きていけた時代からコミュ力ないといきていけない時代へ、転落が容易である時代へ、転落もなにもかも方向だけが自由であるという時代へ、ベルトコンベアが動いているのか。そもそもコミュ力ってなんだ。いやそのコミュ力というのがいまのこの問題ある地点においては「他人に自分の問題を開示する力」なのではなかろうか。隠さない。知ってもらう。オレのことを。オレの問題を。オレの同じ服ばかり着つづける問題を。