純粋に音声トーンとしての声で一番好きなのは藍ぽんさんかもしれない。
意味とか会話とかの内容にはまったく関係ない。
声だけ。
すきかきらいか。いや、そんなこと考えるほどよく知っているわけではないのだ。もともと。
さて。本日考えたこと。昨日のエントリ「医療無意味論」について。いや、じつはいのちを救うにあたっていのちの上下、いのちの貴賤があるんじゃないのってちょと思ってしまったことについて。
医学は発展してきた。昔から今に向かって、そして未来に向かって。すべては「少しでも多くの命を救うために」。感染症を克服し、いまはたぶん癌とか免疫不全とか、とにかく順番にすこしずつの病気疾病を原因解明して克服していこうとしている、すこしでも人類が疾病によって死することを減らすことに努力している。
なんのために。
「先がある」という言葉がある。たとえば若い命が、骨肉腫などで、転移を重ねて命を落とす、それについて皆が嘆き悔む。もうちょっと医学が進歩していれば。
たとえば老人が多臓器不全で死んだとする。ある意味これは寿命だったんだと誰かが言う。そうだね、とまた他の誰かが言う。
さてこれは、 比較していいのか。
若い命は先があるので価値があって救うべきである、古い命は先がないので価値がない。
ここには言葉の使い方によってめくらましに成りうるトリックみたいのが混ざっている。できるだけそういう成分を排除したい。
さて。
「命はどの命でも価値ある平等に」というけれども・
いま、311震災のあとに避難所に集う人をみて「老人が多いようだが、どうして若い命がもっと助からなかったのだろう・・・」という言葉があったとする。
ふうん。もっと老人がたくさん死んで、若者がたくさん生き残るべきだったって?
もともと「地方」には若者が少なかったのですよ。
さてさて。いろいろ混ぜてしまったので論点はもう分からない。分からない。
分からないけれども言いたいことは、さてはたして命には価値の差異があるのかねえという疑問が生まれたことである。医学の進歩は「あらゆる疾病についてそのメカニズムを明らかにして対処する方法をリスト化し、そのカタログを医学生に徹底的に学ばせ、どんな疾病にも対処できるようにしていきたい」「既に医者である者についても日進月歩の医学研究をアップデートしていきさらに多くの命を生きながらえさせていくHelpを」
そうして人類社会で未曾有の超高齢化社会というものができあがったのである。
まあオレについてはっきりしているのはオレがどうしたいかだけだけども。