よくわからないのだが、書いてみると、年齢が上がってくるにつれて自分自身(オレ)についてのとらえかたも変わってくるのだろう。感触として、なんだか、何をこれからしようというよりも「これをしないといけない」リストがあって、それをこなすことが必要、生活のために必要、しかしそれをこなしているうちに自然と時間がすぎて、「こなすこと以外の、したいこと」が、だんだんと、やせ細っていく、やせていくと、だんだん何もしたくなくなるのかもしれない。
そして意欲趣味嗜好がゼロになっていく。
のかもしれないし、そうではないのかもしれない。
いまオレがしていることは、仕事がおわって、ああよかった、水曜も終わったので今週はヤマをこえてあとはなんとか二日間働くだけだ、さて週末からサボッていた洗濯しよう、洗濯機まわした、明日の朝の米も炊飯器にセットしなくちゃ、さて洗濯機まわっている間に日記かいたりネットwatch、そして土曜の電撃大賞を聞きながら。
ほとんどはルーチンであって、たぶん電撃大賞をイヤホンできいているのが唯一の「しなくてもいいけどオレがしたいのでしていること」である。
これはオレの「趣味嗜好」である。
エネルギーがなにも内部になくなってしまうのはこわい。
おそらくは死ぬギリギリまで「オレの面倒をみるのはオレしかいないので死ぬ間際までボケたりできないし緊張感を保っていかないといけない」とでも思っていないと、
みにくく認知低下していきそうである。
ここに「みにくく」と書いたが、オレはそのような「認知面の能力低下」している人をみにくいと思っている。思っているなあ。
それがもし避けようのない疾病であるならば「みにくい」なんて思うのは差別である。
discrimination
である。
そして蔑視軽蔑侮蔑である。
まあしかしここはオレの日記なのでとりあえずそのうちに訂正とか悔悛とかするまえのRAWな気持ちをかいておくとそのようにオレは認知症でボケの老人を「みにくい」と思っている。こころがある。真実存在する。
ので、だからこそ「ボケたくない」と人一倍思うのである。
毎日接しているからこそ。
ところでオレは間違っているだろうか。間違っている(真善美の基準に照らして)のであるならば、どのように悔悛すればいいのだろうか。
「思うこと」は、論理ではないので、論理的説得が意味を為さない。
また「思うこと」を他からの強制で止めることはできない。思うことは実際にそのように思っていることである、そしてまた「もう思ってしまった」ことである。
いやーきょうは同僚をみていてねーボケに対してちょっとイラいらしたりムカついたりすることは絶対あるんですよ奴らはこっちの話まったく聞いてねーし。
でも別にやつらの中には「意図的に目の前の人物を侮る」ようなintentionは無いんですよ。そんな高級なものはない。いい、イヤ、嫌い、これをしたい、というようなもやもやした欲求(要望)があるだけだと思う。その場のTPOとは全く関係なく。
所詮コントロールなどできないのである。と思って。
どうするか。それが課題である。別にオレがいま深刻に悩んでいるわけではない。
なる奴はなるしならない奴もいる。