NHK「特報首都圏」。
延命治療と本人の選択と家族の重い負担(選択について)、の、話。
まじめな話。
最近のオレは「命がすくわれるならなんでもしてええんちゃう?」に傾いてきつつあるみたいな。
「口から食べられなくなった人に対して、管を使うことは、それ自体でその人にとっては尊厳を損なうことだ」として、口から食べられなくなった時点で管をつかわずその人は死ぬという北欧方式ーーーーこれが本当なのかどうなのか検証必要ーーーーを、否定するか肯定するか、どうなのか。
どの程度、何をするのか、そのバリエーションがありすぎて、「倫理的に正しい方法」「政治的に正しい方法」をどれか決める、あるいは
「本人または家族がそれを決める」か。
決めた結果で命の長さが決まる。
こういうことは「医師が責任をもって決める」ことになっていた、のだ。一時期は。
てか、じっさいの話としては家族は医師に押しつけるのである。決断と責任とを。
本人とその家族、家族だってつらい、どうしますかと言われたら何をおいても生きる方を選ぶだろう、胃ろうや経腸栄養を。
それが尊厳を損なっているだって?知ったことか。
誰もその行為を断罪できないぜ。
で、昨日も書いたがここにキリスト教と仏教と神道が出てくるのである。
「自己決定」は個人があってこそであり、個人なるものが確立していないとか確立させるべきでないという社会風習においては自己なんてものは無いんだからまとまりとしての家族とかそのへんとかが人間のケツ持ちである。
ケツ持ちというのはヤクザ用語だと思うのだが。
セッション22、やっとTDCが出てきた。昨日のことだ。藤木TDC、いいねえ。いい加減でいいねえ。「大事件が起きて株の暴落みたいな事件が起きてほしいと思っているディーラー的な投資家がいる」みたいな。
それが北朝鮮のミサイル発射だ、みたいな。