ゆうがた

それでさあ。タイヤかえて、そのあと外ランして、中に入って改めてランニングマシンで膝の具合みながら走っていて、まあ痛みもあるけどあるものとして過ごすしかないなあと思いながら前を見ているとグラマーねえちゃんが寝ころんでストレッチしていて胸の谷間が見えるのだが、彼女にしても別に見せびらかしているわけではなく、オレの覗きこんでいるわけではない(こっちはランニングマシンで立位の高さ、向うは床のマットに寝ころんでいる)、で、これ、どうなの。
 まあなんでもいいけど。
 
 だんだん願望も変化するだろ。中年においてはコドモつくる労力などもう敬遠したほうがいい(という巨泉の意見)、とか。
 
 汗出してから風呂はいって帰宅していったんリラックス、ネットとラジオ、東京ポッドを聴いているがなんだねえおっさんだよねえこの感じ。さっきまで走りながらメガネびいきを聴いていて今週はとくに小木と矢作がゲラゲラしながらじゃれあっていて、そういう関係性がここにもあるなあと思ったりして、
 このへんが男女の非対称性だなあと思うのであった、
 久保能町のANNを聴いているとお互いの仕事のそれぞれちょっと違うところを認めあいつつ仲良くするけどそれはそれでじゃれあうことはしないという感じ(正式な漫画家としてはもちろん久保が本格であってマガジンなど正式な本流で連載で作家である)(に対して能町ははっきり言って稚拙な絵で自称漫画家と今でも言っていることに対応しているわけだがその一方で文章は能町の武器であって云々)(ネームだけでい言うと能町の漫画はすげえ微妙なところを突いているなあとおもうんだあくまでケイクスの連載をみただけだけど)、
 えっとそれで何の話だっけ。

 
じゃれあいですかねえ。
 
 いったいテレビに出てたら偉いのかの時代はとうに過ぎて、いまはテレビは金に直結するだろうけど所詮それだけであってテレビでやってることは本当かどうかは怪しいけどまあそれなりの懐疑をはさみながらまあテレビは見るけどね
 の時代である。
 もちろんそれが人間の生活の姿勢を左右することもあるけど、だからと言って全部を信じていけるようなナイーブさは全ての国民から失われたといってもいいと思う。
 だって守ってくれる存在はあくまでリアルの手だからね。
 
 ラスト1マイル。
 
 歴史なるものは「安穏」がちょっとで、殆どすべてが動乱・戦争・戦乱・殺し合い・政争、でできているのだと思う。安定しない社会。力で殺せ。死体は喋らない。