よる

いやさ二点。
 
難病がどうにもならんところにあってもその気持ちの持ちようが周囲の理解に支えられていれば身体が動かずとも快を感じて愉しむこと入ってくる情報を楽しむことができるんだろうともそういう報告実際例があろうとも。その条件が満たされないとそれはなにもならない。なにも業績のためにサーヴィスしているわけではない。心にはいっていくのはとても難しい。できるできないの境目がある。
 たとえば同僚がすごく有能な人がいても拗ねている初老の心に入っていくのは容易ではない。
難病の人が死んでいくことを知っていても楽しめるような愉しめるようなこころの持ちようを外からつくることは大変に難しいとおもうが方法があるとはおもうがそれは属人的な方法にまだ限られているのではなかろうか、つまりいいかえると一般適用に耐えうる方法にはなっていないのではないか、というか全てが個々の例に、個々のケースでしかいえないことなのではないか。
 個々のケースなのだから個々の場所で考えるしかない。尺度をあてはめることをしないほうがいいのではないか。考え抜いていない怠惰を責めるのはいいが、よりよいアウトプットを探すのが目的ではなかったか。
 
 もう一点。どうしようもない隔たりはあるしまともに顔を見ることさえもうできない。