ひるである
午前は講演会にいってきた
電車で2駅
すぐとなりである
オレん家から駅まで歩いて少しだし
駅から会場までも少しである
これで午前をすごす
午前
講演会は4人のスピーカーがいた
それぞれが語る
しかし専門性が十全に語られていたかというと疑問である
やっぱぞんぶんに語らせたほうがいいせめて45分
(オレはとぼしいスピーカー経験に基づいて語っている)
オレがさんざん父の「ある一個の体験をえんえん何回も何回も語るのにうんざり」したのと同じことに陥らないようにしたいと思うあまりにおなじようなことをしでかしているのではないか
と客観性がない自分語り
午後はどうするか考えたが
本能がラクしようといっているので
曇りの空をみながら自宅にいてラジオをきいている
「楽器を挫折する」というテーマの久米宏のラジオである
久米さん何歳までやるんだろう
まだ大丈夫か
タモリ倶楽部もまだ大丈夫だと思うけど
心配もあります
いいとも増刊号(日曜)が
終了したときのロスはかなり大きかった
そりゃ草薙くんも居候するわけだ
個人の私的生活が充実していないので外部に目を向けるしかない
生前の2010に刊行されそれを買い
死して2019に刊行されてまたそれを買った
評判がいいときくと買いたくなってしまう
もう故人なんだからきりがない
あまり
追うのもどうかと思う
が
振り返りという意味で
「自分」ではなくその外の社会の日本の世界のあらゆる現象について
のコメントを語り構造を語った橋本治であり
彼ほど「身辺雑記エッセイ」と無縁だった作家もいない
身辺雑記は女性のお家芸
なにも語っていないようでじつは濃い内容みたいなこと
伊藤さん(再婚で吉田戦車と結婚した伊藤さん)が週刊文春で1コマで
やってるソレなんか典型だと思う
あれが身辺雑記だ
あと西原理恵子さんとか作品全部身辺雑記に見える
もちろんいいたいことを作品として昇華しているんだすそれはわかるが
あまりにもパーソナリティが作品に重ね重ねで
積み重なった層を作品として出していく
男性作家のエッセイはどうなのか
オレが知るものでは西村賢太さんが本の雑誌に日記を連載しているが
ぜんぜん身辺感を感じない
売春して当たりだったという記述は
そういう「事象が発生した」だけのことで
個人の「うれしかった!!!」ような感情を感じない
査定しているだけに思える
つまり切り離されている
なんでそう思うのかな
オレの個人的条件に発することが原因だったらいいのに