まあまあ2

時間がある(多少ねむい)ので

「おりる」ということ――渡辺京二の方法意識について - king-biscuit WORKS

 

を読んでいまして

なんでよみはじめたかは忘れた

 

オレにしてみればオレが高校生になったころの1986春なんてのは

もうとっくに「それまで続いていた時代精神」なんてものは途切れて

しかし残骸だけがあった時代といえよう

つまり都立高校にはかろうじて文化系部活の部室たる「長屋」というバラック

残っていたものの

それはオレの母校の話だ

しかしほどなくしてそれもとりこわされたようで

つまりは「自治」なる精神が

あったようななかったような

もうなかったのかな

みたいな気分

 

そこでオレは精神的な支柱としての橋本治を読むようになるわけだが

思えば思想家としての橋本治が中心にいてオレの脳は形成されていったわけで

その橋本はどういう思想が根本にあったかというとそれを一言で

言うなんて無理に決まっているのだが

 

とはいえ杉並区の都立高校に通っていた橋本もまたひとりの

文化系青年

だったわけでしかし時代がちがう時代は

まだまだ紛争だったのだと思う

 

オレがまだ読んでいないという意味で

渡辺京二鶴見俊輔がいて

主著を読んでいないわけで

それもまた時代というかオレがうまれたころには

かれらのそれは時代のセンターにはいなかったのだ

しかしありがたいことに図書館というものがあるので

意識すればいつでも読める

 

結局オレが「思想の科学」にバイトとしてもぐりこむ

ようなことを画策してしかしやめたのは

そのときのオレが鶴見俊輔について何も知らず著作はおろか

人物も知らなかったということによる

 

広告批評」みたいなもんだと思っていたのである

 

ぜんぜん違うだろ

 

どのくらい違うかは知らない

 

とまれ

 

まだまだ読むべきものがあってありがたい

 

人の日記とかブログを読むくせはまだまだ続いており

 

医者の人が千葉雅也「現代思想入門」を読んで批判している

のだがその主たるポイントは「こんなん学問のための学問になってしまっており世間と遊離しまくりじゃん」である

 

あまりに遊離してしまえばもうそれは世間の層に戻ってこれなくなる

のだろうな

 

 

多少片付けをしたので部屋における「床の見えている面積」が

多少増えて

いまこうしている場所から見る部屋が

目新しい

気分である

へんなの