たとえば昔はその作家を好きになれば全作品を読む
という方針が決まっていたので
と思う(10~20代のころね)
その後作家についてはそうもいかんくなり
マンガ家についてはその方針はなるべく守ってきたので
追ってはきたが力つきることもあり
それこそ個人史としては途中でともあれ
田舎で書店になかなかいかない(それこそ脳が本以外のところを
向いていたような)(ニコニコでアニメをみているずっとみたいな)
時代もあって
活字の本をうまく読めなくなりマンガもそこそこ少ない時代をへて
やっと2010年代後半くらいから活字を読んだりマンガを熱を入れて読んだり
するのを再開できてきているような気もしていて
配信時代になってやっとアニメは連続ものをときどきまとめて
鑑賞できることを使うようになったりもして
で
なんでもいいから順番知らずにあるものを読むみたいなことが
最近はあるし
いま図書館でかりてきたのの中に梨木香歩の紀行文
があるのだが
前にも書いたけどこの人の小説フィクションはオレは
読んだことがなくて
でも紀行文をよみたくてというか書店でたまたまみつけた
紀行文の著作を買ってまだよみおわっていないが
それで今回図書館でかりてきたのは
前に『やがて満ちてくる光の』を読み
https://www.shinchosha.co.jp/book/429912/
今は『渡りの足跡』を読んでいる
多分最初に買った紀行文のやつ(『風と双眼鏡、膝掛け毛布』)ともふくめて
順番はぐっちゃぐっちゃだが
まあいいじゃんね別に順番なんて
『渡りの
は特に鳥の渡り鳥の観察を中心にしてそれしか書いてないような
純粋観察文なのだが
観察
そうですよねエッセイとか紀行ってその人が
みたもの
が
中心にあるからそうなんだよな
みている
何を見ることにしたのかはその人が選ぶんですが
だから視覚の無い人は「聴いたもの」とかについて
それをなにか発信できる方法で発する
ことができるといいよね他人に伝わるように自分につたわるように
それこそさっきツイッタを書いていて
伊集院が
「妻は友達と話しているが情報を伝えるためではなくただ話すことそのものが楽しいからそうしている(オレの意訳です)
「自分は情報伝達という目的のために話している
同じ「会話」でもそれは全く別の概念を扱っている
という話を伊集院が『世間とズレちゃうのはしょうがない』で
語っているのだが
それで言えば
伊集院が長いことやっているひとり語りラジオは
語りをしているがそれは誰に向けて語っているのかといえば
伊集院が本人つまり自分に向けて語っている
のであって
というかそうとらえることができて
自分で自分に向けて語るから長く語っても飽きることがないし
それはリスナーはそれを横から聴いているだけであって
別に共感も反発も
リアクションを
なにもしなくてもいいのである
ただ伊集院が自分の脳を外化しているだけの話である
それはやめられないというかそれがないと「理解」に至らない
のだろうし
情報とはつまりAからBに至ってはじめてそれが情報であること)(伝達)の
意義を100%果たした
つまり認識の雲から出て認識の場に降り立つ
みたいな行為(セルフで形にする)Output
が無いとどうにかなっちゃうんだよ
伊集院は「何をするにしてもラジオで話すことができる」からそれをする
のであってそうでなければ何もしない
というのだがおそらくそれは逆なのである
何かしたいのだが何をしたらいいか分からないからラジオで語ることをしたいということにしてそれが一義的に存在価値としてある
あとはその「語る」という器になにかを入れればいいのであって
何を入れても成り立つのであるもう器があるからね
器がカラならばカラだ!と言えばいいだけのことである
なんでそれをオレが取り上げたいかというと
みた映画「カモンカモン」で
インタビューを仕事とする男が
甥をあずかってうまくいかないことや
自分のいまの心情などを
マイクに向かって
一人で
まるでインタビューに答えているかのように
語る
のである
誰がそれをきくわけでもないが自分は語っており自分はモニターヘッドホンで
それを聞いている
だから自分が聞くために自分で語っているのである
オレが日記をしつように書くのも
執拗に
オレが書いてそれをオレが読むために書いているのであって
たまたまそれを他人が読んでもおもしろいことがあれば
たまたまそれをラジオで語って他人がきいておもしろいと思うことがあれば
あればね