ドライブ・マイ・カー評2つ

文學界のバックナンバーを溜め込んでちょっとずつ読みいま読んだのは「ドライブ・マイ・カー」(映画)が公開された直後のやつで監督と野崎さんの対談があってそのあとに映画評が2つ掲載されている


( 瀬尾夏美  聞くこと、演じること )
は「聞く」ことのニュートラルさによってしか語り手の自由さが解放される方法はない(大意)という評である
監督が2011に被災地での映画活動をしていたときの
「被災者」という型にはめたりなんかしたら絶対かれらは言いたいことを言ってくれないがそれでも語りたいことは奥のほうにある



佐々木敦 言語の習得と運転の習熟──『ドライブ・マイ・カー』論)
もう1つは佐々木さんが書いた評でそれは改変(監督は原作を大きく改変しており)について述べた後に運転や新しい言語を習得するときのことをアナロジーとしてつかっていつのまにかふとできるようになっている(もちろん努力しての結果)し
また
多言語演劇という方法は
それぞれの演者は違うことばを語っていても最終的にはことばの意味は伝わるという矛盾してるけどそうなるんだという姿(シーン)のことを書いて評している
それは原作にはないところ
なのだが
韓国手話の女性はなぜこの一座にはいることになったのかそれはオーディションの審査員がこの劇には彼女の行う表現が必要だと
判断したからだよねえ

そして2つの評に共通点して高槻の
「(他人のこころを理解などできないが)自分のこころを知る為に深くおりていくしかない」
ということばを引用している

これは村上春樹が井戸の比喩で何度も
自分の井戸におりていく

といっていることそのもの
だと思うのだが


(話かわって)

なぜ人は小説をよんで
たとえば
そこにいる
主人公が
ああ
「愛ちゃんは本当にそう思ったんだなあ」
という共感というか
理解できなくても
そう
あなたがそう思うことはわかるよ

というなんだろ
そゆのをエンパシーっていうのん
ちがうのん

(エンパシー:他人の感情や経験などを理解する能力)

あっれ
理解はしないといけないの?
共感しないだけで でもわかるよ ってことなのかな

わかんね


参考
www.shinchosha.co.jp

empathy
とは「能力」である
sympathy は「行為」のようだね

empathy は Dictionary.com では
the psychological identification with or vicarious experiencing of the feelings, thoughts, or attitudes of another.
(代償的に経験すること、〈他人の〉考えや感情、態度などを)
となっている


ここでの愛ちゃんは
「ひらいて」の
愛ちゃんね
ずっと考えている
愛ちゃんは
なぜ
いや考えるまでもないな
好きになって触れたいとおもって
触れることのどこがおかしいのか
すべて
流れるようにことはすすむ
(相手が受け入れたからだけどね

途中で話がかわったが

ともかく

強い映画はいろいろあとに
のこしていくのだった
遺す