哲学者

ドゥルーズ「人は統合的な個人ではなくなり、いくつもの社会属性やデータの束としての分人」

ベイトソン「個体ではなく関係性から出発する哲学」

これらは引用ですけどね

 

元:

note.com

 

まあそういう「基礎となるものの考え方」が

過去にたくさんあり

それらは

正しいか正しくないか

使えるか使えないか

正当か

誤謬か

いろいろ審級をへて

いま言葉が現代にものこっているものがあって

それを我々も使っているのです

 

ヴィゴツキードゥルーズを対比関係から語る本もよかったよ

ヴィゴツキーからドゥルーズを読む : 人間精神の生成論 (新曜社): 2019|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

よかったよとかオレえらそうだな

まあいいんだよオレそっちのプロパーじゃないもん

ただそういうことを考えるのが脈々と続いているのが

いいことだなって思うの

考える歴史

 

 

というかね

もちろん具体的な問題は生じている

人間がことばをおろそかにして

つまりそれは分裂

思考と言語は表裏一体なのに

発声することばが自らを騙していることに

気がつかないつけないそういう能力の

いわば退化退行である

言葉を思考は裏表であることはヴィゴツキーから

学ぶことができる

発達の心理である

 

今日は図書館にいってきたんだが

(またあたらしいところ)

「わかる」とはどういうことか

を教育(心理)から考える人それが

佐伯胖氏である

「わかる」ということの意味 : 学ぶ意欲の発見 (岩波書店): 1983|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

どこから知ったかというと

オレがフォローしてるはてなブログの人が

読書日記をつけていて

そこにあった「読書日記」を読んだという

(阿久津隆(2020). 『読書の日記 本づくり スープとパン 重力の虹』 p.519)

その読書日記(ややこしいね)の中に

あったわけだよ佐伯氏のことが

 

なにしろオレは「わかる」と「分かり合う」について考えて

いるところだったからさ

「わかる」にビンカンなのです

 

まあ教育と心理の人はみな同じことに最終的に

辿り着くのであってそれは

学習とは自らがそれをしたいと望んだときにしか発動しない

ということである

必ずそうだ

だから教育というのは外から与えると思ったらそれが間違いなのである

「わかる」ことも本人の力でしかわからないのである

ただ教育は技術としていったい人間はどうして学習をする

どのように学習するのかを

研究した結果としてこのようにしているのではないかとか

こうすると本人の気づきを促進できるのではとか

いろいろと考えたのである

なんでも試してみてそれで結果が出て

それが万人に当てはまるのかをまた検証してそうしてできた

学問は科学であるといえる

検証を経ているからですね

 

しかしそういうのを考えるにも人間が考えるとか

思考するとか学ぶとか抽象概念を操作するとか

ものすごくいろんな蓄積があってのことであって

そういうことの蓄積をしてきたのが

古代からの哲学者であるといえる

つまり考えることについて考えるというのは間違いではない

そういうのは具体性につながっていないように見えるので

素人がしょせん机の上だけじゃんとか言うのだが

ものを知らないのは素人のほうで

すべて実践につながっているのである

 

と思ったね

 

ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で言ったことだって人間は常に言語を改変して生きて発言していてそれは人間の生命と思考とそのアウトプットは常に新しく生成しているということを言っているんだとオレは理解している

だから常に変化していて面白いんだと思うわけよ

そうじゃなければ死んでいるし人間は生きている限りは思考しているそして思考いこーる言語を脳内で使用している

それは本人が気がつかないだけで常にそうなんだよ

って話

 

(後記

ヴィトゲンシュタインが「言語の使用」と言ったときにその「使用」は

どのような意味でそこに置かれているかは議論があるんだってさ

www.l.u-tokyo.ac.jp

その議論のことはよくわかんないけど

「現場というナマの時間・場所において実際に用いられる限りにおいて言語は生きている」といういいかたでいいんじゃないかなあ

でもそうすると書かれたことばとか映画の中のことばとか

どうなる

ってなるのかな

(これは多分その議論とは別の議論)