ル=グウィンの「暇なんか(略)」と
國分「暇と退屈(略」が
共通して取り上げているのが
”余暇”
のことである
大学(母校)からおくられてきたアンケートの項目として
國分は著書のメインテーマとして
でもこの2冊の題名にはそれぞれが
暇
の文字を入れているのだ
ちな ル=グウィンの著作の原題はこうだ
No time to spare: Thiking about what matters
それに割く時間などない
と言っている
暇じゃないのよ
と言っているのだ
だから本当はヒマについて語っているわけじゃないことになるが
それでも最初の短い文章は余暇ってなんじゃらほいとエッセイを
書くのである
曰く
私の場合は余暇というものが何なのか未だにわかっていない
時間はすべて使うためにあるもので厳密には私は引退した人間ではない
文章を考えて書いている
私の時間に目的のない時間はない
そう
書いている
つまり大切なことを考えるのに忙しいのだ
彼女にとっては行っていることはすべて大切なことについての時間である
ということになる
余暇だなんてとんでもない
こんなアンケートをよこすだなんて
ハーバードはどうかしている
だそうだ
もちろんこれはレトリックの問題
ル=グウィンが特別な著作を書いたのは事実だが
特別な人間かというと普通の人間だから
私は退屈というものを味わったことが
産まれてからいちどもない
ということはないだろう
ないと思うけどねえ
もう亡くなったから質問できないね