いろいろあるのだが(父親像)

もちろん

「書いてはいけないこと」などないのである

それがオレの存在を悪くしたとしても書いてはいけないわけではない

 

つーわけで

うちの父親であるがどうしてあのようにまったく「変化しない」

のであろうかと思っているが変化しないのに生きていられる

こと自体が

すごいといえばすごいし

バカといえばバカなのである

 

というのはあれですね

ううむ

表現が難しい

 

価値の判断基準がひとつしかないのである

 

こういう人物もいる(ひょっとしてそれはけっこう世間に多い?)

のだという勉強にはなるが

 

つまり高度成長期の日本を同じ歩みっぽくやってきたがために

なまじの成功体験があるのである

ので

 

よい企業と自分自身が精神として行動として一体化する

ことが至上命題金科玉条であり

それ以外に「価値」はないのである

なんなら学閥と会社内派閥と会社同期の人間関係だけで

一生を過ごす

 

芸術というものに全く興味がなく小説や映画や音楽を楽しむ習慣が

ない(若いころは少しはあったようだが)

趣味といえるものがあることはあるがそれは

成績を競うものであったり段位を獲得しつづけるもの

だけである

他人に対しての共感をしめす能力がない

資産を増やすのは大好きだが

資産を活用する方法を知らない

いわゆる世の中の弱い立場とか

躓いた人(アル中とか)

とか

身体障害とか

どうにもならん状況

におちいることがあるという現実について

 

判断基準は「努力していれば苦難は回避できるし乗り越えられる」と

思い込んでいる

生まれた境遇とか本人がどうしようもないことについて考慮することをしない

 

健康についてさえも運や偶然の要素を考慮しないので

いまの健康は本人の努力で得たものと思いこんでいる

 

などと書いてみました

別に悪口のつもりで書いてない

なるべく客観的なことを書いてみようと思った

 

でもあとでみてみたらオレの悪意はあるんだろうね

 

みうらじゅん先生(’今日の日天に出てた)の

比較三原則

と自分を比べるな

というのもあるのでなるべく親とは比較しないようにしようと思っている

 

別にオレに資産がなくてもそれは別にたいした問題ではないのだる

 

就職とかどうでもいいと思っているのは本音なのでうごかせない

 

美術も音楽も映画もマンガも小説も大好きだ

(演劇だけはちょっとなかなか魅力にとりつかれるところまでいかない)

(いわゆる中間小説とかミステリとかで面白いと思うものはあるがなかなかはまるところまではいかない)

(小説だとなんとなくだけど純文の方向が好きなんだと思う)

西村賢太はこないだ「苦役列車」の最初のところ読んだらおもしろそうだったのであれなら読めるかもしれない)

(今村夏子はまずこちらあみ子を読まないといかんのだが図書館でとんかつQ&Aの予約を入れたのでこれがいつゲットできるかによる)

 

オレが父親とオレとの違いでもっとも強くおもうのは

小説を読めるかどうか

というところであって

 

うちの家はオレも姉も母親もみな小説を読む人間なのだが

父親はビジネス系(似非ビジネス系)しか読めない人間である

 

(死後に実は純文読む人間だったとかいって沢山蔵書がみつかったら驚くけどね)

 

ビジネス系といえば聞こえはいいが結局「日本は復活する」とか「2040年未来予想」とかそういうもんだけである

つまり

学問のベースのないジャンルである

学問というものがベースにないということは根拠なきことを書き散らかしているだけである

だから似非と書いた

すこしでも

たとえば工程管理とか

学問として研究されたり

人間同士の問題としての心理学の研究とか

なんかビジネスにつながることでも学問的ベースが少しでもあれば

オレも話を聞いてやらんでもないのだが

そういうポイントをもつというか視点というか

そういう観点がまるでないまま社会人として終わってしまったので

とオレは思っている

 

つまりよくいる人間像として

自分の経験は世界全般である

と認識している(世界の広さを認識できない)

ような人間である

 

というかそこまで言うとオレの比較三原則が

顔を出すね(オレは自分を「世界の広さへの認識がある人間だ」と

思いたいわけです)

 

なかなか突き放してオレのことを介在させない形で書くというのは

難しいのう