それこそ概念として

鉄道は「ダイヤに 利用客が 合わせる」つまり固定されているのは

ダイヤであって

利用客はあくまで外からやってくる客体としての客

でしかない

 

音楽がいろんな音楽があってそれで

聴くほうは自分が主体だと思っているが

それこそ音楽は流通している時点でもう動かない(Stable)ので

聴くほうの耳と脳が

それを好きか

それを聴くことができるか

それを受け入れることができるかどうかを考えるだけのことで

たくさんいろいろ聴いてきているとなんとなく

なんでも合わせられるようになっていくが

それでもそんなに合わないなってもんもある

ハナレグミの「家族の風景」を笹川美和がカバーしているが

あまり原曲もカバーもオレには合わなかった

 

味だって

大人になると味覚が衰えるというのだが

それはそれとして

食えないものも大人になると食えるようにもなるし

少なくとも食うものの幅はひろがる

食い物に対して食うほうの人間が変化したのである

 

小説にしてもそういうもんなんじゃないのか

アニメもそうだけど

ちょっとでも毒が含まれているとモウダメということもあるし

毒がまるでないような話はつまらんということもある

それは好みでもあるし

あるいは好み以外のなにかが永いあいだに醸成されてきたのかもしれない

 

図書館で「あの川のほとりで」を立ち読みしたのだが

それこそ1954のまだアメリカ北部かカナダかで製材林業がさかんだった

ころの話からはじまり

21世紀までつづく長い話しなのだが(アーヴィングはいつも長い)

今は読めないけどいつか読めるかもしれないし

読めないかもしれない

それこそアーヴィングとか

全部読まなくても

重要と思えるものをいくつか読めば

もうお腹いっぱいですといいたくなる

わけです

そうじゃないほうがいいと思うが

オレはいろんなものを読みたいので

いくつかに限定してもう人生このさき読まないと

決めるのはいやなので

 

それこそ死ぬまで労働するとか

死ぬまで新しい本を読むとか新しい音楽を聴くとか

そういううごきつづけるのをつづけると

いう方針でいくならば世界のほうが変わっていくので

それにある程度あわせていくしかないしオレが

合わせて変えることができなくなったらそれこそ

それはしょうがないね死の寸前だってことなんじゃないの

死って停まることでしょう