5月6日(土曜)

えっとくもり

 

昨日のつづきで湯梨浜についてしらべていて

インタビューに近所に古着屋が

というので調べれば

アメリカン古着屋がでてきて(「庫」ってお店です)

 

関連

www.tomoya-isoe.info

https://www.instagram.com/isoetomoya/

 

別にオレがあらゆるところで「はあ一体どうやってそれがお金にかわっているの

かなあ?」と疑問したところでオレが卑しいというだけのことで

それがオレの考え方の癖であるとすればそこでそこから

また別のことを考える(お金のこと以外のことも考える)

ようにすればいいだけのことです

 

田舎で自然がキレイでおしゃれな建築と家具とライティングと

古着があるしかしそれはお金になるのかしらん?

とオレが思ったのはオレがそういう考えのパターンに慣れ親しんでいる

からにほかならない

 

人によってはお金のことを考えるまえに

・どのくらいそれが人のこころに対して明るく楽しいかんじをつくりだせてる?

のように楽しい明るいかどうかを基準に考える人もいる

かもしれない(あくまで一例です)

 

人間の心を明るく楽しくすることはお金に数値化できない価値がある

するならばそれはそうなんですが

 

オレなんかは

 

もしそういう仮定について考えるとしても「じゃあそれは数値化できなくても

いいけど

貨幣換算した価値概念よりも ”大きい”大切だという価値がうまれて

いるんでしょうか?」

と考えてしまうわけで

大きい小さいもまた比較を数量度量換算した比較になっているので

同じことで

 

メジャーできないような比較(それって質の比較?)が

できないと批評にならないんじゃないのって思ってしまっとぁ

 

オレが服飾を買う売るの世界がどうしてもあんまり理解できないのは

自分が服をめったにかわない(気に入ったものを着れなくなるまで

着たおすことが重要で他人からどう見えるかをほとんど意識していない)

からだと思うの

 

着なくても好きな服というのはあるけど

(いいデザインと色のTシャツとか好き)(飾りたい)

 

だから美的なものについての感じはそういう感じで

 

 

いやさそれこそ姉(実の姉だ)

明和電機のファンでずっとその当初あたりからみていて

好きだという理由だけで「何の役にたつのかわからない活動をずっとつづけて

いるのはすごい」という

確かにすごいとオレも思う

つづけていたらいつのまにかお金にもなっているところがすごい

意図しないほうがかっこいい

かっこいいだろうなあというのはあるんだよ

 

だからたとえばオレが個人事業主になりたいなあと思い

それが文章かいてお金になりましたいうて年間のその収入が30マンくらい

だったとします(30マンでもすごいと思う!)

それはオレにとってはくだらない作業する時間拘束の正社員で200マンくらい

稼いだことよりも遥かに大きくくらべものにならないくらいの高い大きい素晴らしい

 

素晴らしい30マンだお

 

と胸を張ってオレは言えるだろうと考えていますね

マジで

 

だから湯梨浜に見にいきたいなあ古着やさんもね

 

(だから の使い方がおかしい)

 

オレにとってはオレのもやもやした考えを文章化したいいかんじになっている

とオレは思っているが改めて読み直すと

真意がつたわりにくい文章であることは間違いない

まちがいないぜ!

 

ああ土曜だなあ