たかが気まぐれで選択しただけであったとしても
職業で
(職場で ではない)
疾病をえている人
うまれつきの障害をもっている人
中途障害をうけた人
などと会うことがあり
いろんな家に行きいろんな人の声をきいた
のは経験だけど経験として「この社会は表層以外のところが
あらゆる広い」ことを実感したというか
いやさオレなんかよりもっと広いものを見てきいてさわって体感してる
人はいるわけでさ
そういうのは想像力でまかなえというわけだが
オレのような凡なる人は経験で想像力の貧困を
補うしかないわけじゃん
だからありがたいと思うわけでね
がっこうとかカスじゃんと思うのはそういうことでがっこうの中で
の
ことなんかほんの少しの少しにすぎない
ってことが学校の中で生きるやつにはわからんので
底のバランスがね
底がぬけてくれればいいのにね
偉くもなんともないっていうことを
その一方でオレは「教育」という機能は重要なことだと思うし
それこそ今日ねっとをみていて
その人は國分の著作をたくさん読んでいて
それでわかることはスピノザは「読む人だ」ということで
それこそデカルトの哲学原理からはじまるそれで
そしてそのことで國分はスピノザとデカルトを読みに読んだわけだが
さらに國分の読者はそれらぜんぶを読むことになるがなかなか
そこまでたくさんは読めないのだが
國分が博士論文のときに指導教官から「ひとりで読んでいる」と
書いてあるわけだがそこが重要なところで
オレも読みましたそこを
ひとりじゃないということでは
スピノザはまさに並走している
かれの読者全員と並走してくれている
だったらひとりじゃないよね
ってことだと思うんだけど・・・
そんな簡単な表現には還元できないかあ
ともかくね
URLはろう
https://gendai.media/articles/-/109887?page=1
ともかく哲学を考えることは
別に机上だけのことを理屈こねまわすことなんかではなく
この世でもっともベースにある重要なことを
考える
考えることを考え
考える方法を考えるということ
なんだ
だから大事だって思ってるんだオレは
それこそ「教育」というのが「ひとりではなく
並走しながらそのことを考える」ことで
それによって人間は考えることを身につけていくことができる
それによってはじめて人間は「考える」ことを先人がやってきたことをそしてこの世の中で何が重要であるのかを自分のあたまで考えるということを少しずつ進めていくということを開始する
一人だけではそれを開始することはできないんだよ
と
思うのね