他人のこころ(意図とか意思とか理由とか)
なんでそないなことしはりましたん?
みたいなこと’(好奇心やスキャンダルへの興味)
なぜ自殺までしないといけないのか
醜聞と失恋とで自殺とは
それってそこまで大きいものか
みたいなこともあるし
しかし一方で他人のこころを知りたいというのは
出歯亀でもありいわゆる品性下劣
でもある
しかし小説を読む動機って
だいたいが「この小説の中のこの人間は(フィクションであると
知っていてもあたかも生きているリアル人間のようなので)みていると
どうも不可解な行動をしていたりオレには想像もつかないようなことをしでかして
いるわけであるが一体そのこころ(内的動機)はなんなんだろう?
という好奇心がおさえられない(穴があったらついそれをのぞいてしまう
というのは人間の本能らしいですがチコちゃんでやってたので信憑性はうすい
ものです)(」
ということなんじゃないのかねえ
女子高生がセックスしそうになってついにセックスにまで至るという
小説があったらたしかにその女子高生のこころの中みを知りたくなる
なぜそれにふみきったのか
しかしおばさんとか高齢者しわしわとかが
その対象になるのか?
とオレが思うこと自体はもちろん偏見によってできあがっておるオレであるから
そうなるのであって
原則だけで言えばすべての他人に興味が「ある」/「ない」
にわかれるとして
あるのであればすべてなので女子高生も高齢者も同じはずなのである
同じじゃないというならそれは単にオレが価値づけに傾斜をかけて
いるだけでセックスにまつわる妄想のネタとして女子高生のほうが
面白いと思っているからそうなるだけのことである
セックスファンタジー妄想にしてもじゃあたとえばオレと同世代の女子
というか女性がいたとして(たとえば中学の同級生にしてみましょう)
もう50代になっているわけだがそれで独身でも配偶者でもなんでもいいけど
じゃあその人は口にださなくてもセックスファンタジー妄想を
常にしているのか?たまにしているのか?マスターベーションしているのか?
していてもどこにも口にも出さず手記も書かないのか?ダンナに
いわないのか?女友達にも言わないのか>?
そういう意味で綿矢りさ『オーラの発表会』に自然な形で
モヤモヤの性欲を発露する手段としていったんオナニーしておちつく
という女子が出てくるのはすごくオレはそれは必要なことなんじゃないの
と思ったわけだが露骨にやりすぎるとそれだけの人だと
言われかねないのである(これも読者の側の偏見であってそれだけの人
なわけねえだろ常考)
まあ他人の心をわかりたくない誰のこころも
という人がいるとしたらそれは自分のこころもわかりたくないと
宣言しているのと同じだと思うのであった
(後記)
まあ人類だれでも「他人」が気になる
というのは古代はるか昔からそうなんだろうね
そうじゃなければ人間じゃねえよ集住
いまよんでる『旋回する人類学』
2章にはいってそのタイトルは「他者理解」だからね
他者を理解する
昔からそういうことを「したい」し
わからないことを「しりたい」(科学)
んだろうね昔っから
オレがうまれるはるか前から