つづき2

さらに前項のつづきです

 

引用ー自分のツイート

『私たちはいつから「孤独」になったのか』

を読んでいて

思うのは

どうしても

主観としての孤独なのか/ 現象として観察してる孤独なのか

そこがごっちゃになっているように感じる

ごっちゃになった弊害は

あらゆる概念に接続できるゆえに孤独の語をつかわなくても語りうるところ

定義なき話は焦点を失う

 

引用おわり

 

主観としての「孤独」は本人の証言以外からは出現しえない

そうではない「孤独」は

本人が証言しない/できない ところにも 孤独をみる

(たとえば本人が子供で言語化できない 認知症言語化できない

孤独の結果として精神障害を発症したがその孤独は本人の主観には無い

虐待の結果として(以下略)

老化して家族を死で失ったが本人はそれに孤独の名をつけていない

難民でモノや家族を失い家も失っているが失ったとは思っているがそれに

孤独の名をつけていない)

 

これらは全部「孤独」の名をつかわなくても語ることのできるIssueであると

思うのである

集合として「孤独」を冠のせればいいのかもしれないが

そんなグルーピングの定義にしかつかわれないような”弱い”概念を

中心にもって論じるようなことはするべきではないと思う

 

まあそういう”弱い”ことが昔は論じるに値しなかったのが

いまは論じるにあたいするようになったのが現代の価値である

という話なのかもしれない

 

「感情」とか「しぐさ」とか「ちいさなイヤなこと」などが

本当は歴史の主街道に現れなかったがゆえにいまここで論じる意義があるのである

みたいな話ね

差別の問題ぜんぶそう

みたいな

 

オレはオレにだけ主体として参加できるissueだけを論じたいと言っているのではなく

オレは論じたことに意義があって他者へつながる道がひらくようなことを

論じたいんだけど

孤独の話は焦点が定まらなすぎてかえって道がひらかないような気がするんだ