つまるところオレはアナキズムとは「個人であること」だと
思っていて
個人が友愛を行動するならそれはそれだし
それが他者から拒絶されたらそれは他者のひとりの個人としての行動だから
誰も強制できない
誰も強制できない
ことが
人間が個人であることの本質で個人であるから個人でありつづける(トートロジー的に)ことを邪魔する奴はゆるさないー
だから「政府」みたいな集合としての団体に
同意していないのに生まれたときから参加していることになっている
みたいな制度はくそくらえなわけです
行政のサービスも同じで同意以前からそれがあってそれを使っていて何がわるい
であって税を払えといってくるのは行政のほうの都合であって
拒否して行政罰をうける自由があるんだよこっちには
逃げる自由もあるけどね
だから孤独なんてのは個人である以上あたりまえにあって
そっちがむしろ基本であると考えるべき
と
ここまでそういう原則を考えたときに教育どうするんだということになり
オレが反強制的にうけた教育の成果として言語の能力を身に着けたのは
ある意味でその通りであって
完全にほっておかれた人間は言語を身に着けることができない
(実験済)
言語は思考の結果であってすべては思考を自ら行うことが人間のベース
なので思考だけはそれをすることを訓練しなくてはみにつかない
勝手にみにつくような生得的なものではないのである
そこだけだ
他人とのかかわりは
あらゆる星占いが「他人とのかかわり」を「あって当然」のものとして記述
しているのがオレには不思議でならない