読書であるが
図書館本であるそろそろ返すから読みすすめているが
『炉辺の風おと』ちらっと読んだときには八ヶ岳に家をもつ
話かと思ってたら新聞(日曜?)連載だったんですね
そしてそのなかに父をみとるのだがそのそこで医療事故つまり
医療犯罪がおきている件が書いてある医療犯罪というのはオレの造語である
かんたんに言うと強制呼吸装置たるC-PAPが
あれはゴムバンドで口腔周囲にスキマがないように装着しないと意味が
ないんだが
それをぎゅうぎゅうやりすぎて
しかも患者は言語で症状を説明できないため
犬歯が口唇口腔の組織をつきやぶって外に犬歯が突き出すまでに
なっておりしかもそのことを看護師が
まあここからは発見がいつで報告がいつで・・・
という医療訴訟そのものの取り扱い的になるが実際には
医療過誤訴訟が行われたわけではなく近代医療病院system
への懐疑がつづられるだけなんだけど
そりゃオレも元は病院勤務として病院における患者の
取り扱いはかなりぎりぎりであるししかも自発でしゃべれない患者なおさらだ
ということは知ってはいてもそんなに酷いやつははじめてきいたわという
感覚である
つまりショッキング
そのことを強くおぼえておきたい
つまり「自発で会話ができなくて痛み症状などを訴えることのできない患者には苦痛が発生する可能性のあることをすべきではない」というテーゼがあったときに
「命を保つことのほうが重要だ」と言いだすのが近代西洋医療なのである
アホか
であるが
そうなのである
しかし「自分で訴えることのできない者はもはや人間ではない」というテーゼもある
これは非人間的なように見えるが
じつはそうでもないのだ
つまり「訴えることのできない」ということは「人間として生きる」ことの条件が失われたということなので
そこで失われたような人を人として生命をつなぐために強制的に酸素や栄養や点滴や気管切開を行うことはさらに重ねて非人間的な行為であるということを意味するという考え方もあるのだる
生命をつなぐなら本人の同意を得てからにしろであり
同意が表明できないならば家族だろうとなんだろうとそういうことを
してはいけない(なぜなら同意なき医療行為が生命優先のためにゆるされるということ自体がオレの考えではアウトだからである)
表明できない者を人として取り扱うべきなのかそうではないのか
うまれつきコミュニケーションの方法を欠いている人の場合はどうなのか
途中でコミュニケーションを失った場合はどうか
認知症はどこまで人間か
そういうテーマは生命倫理をあつかう哲学でよく出てくるやつで
あらゆるケースはあらかじめ考えぬかれるべきである
オレも昔はそこまで考える必ようある?
と思っていたが
いまでは考えるべきであると考えるようになった
おそろしい現代の医療
がこのままではオレにも襲い掛かってくるからである
そう
これがオレのサバイバルなのである
あともう一冊は蓮實重彦と筒井康隆の対談集『笑犬楼VS偽伯爵』であるが
やっぱりここでも大江健三郎なのである
かれらにとっては「同時代の作家」なのである
うらやましいね
いよいよオレも大江を読むときがきたということかもしれないね
三島とか大江とか安部公房とか気になってるからね
かつてはみんな読んでいたって本当??
みんなって誰?