娼婦を買う男がみにくい姿をしている

思い出したまとめて書いておきたいと思ってたのが

やっと思いだした

 

欧州人が映画をとるときに

こいつらコーカソイドは(オレはモンゴロイドです)

というと差別的であるというのか?

 

まあそれはいいとして

 

コーカソイドの娼婦と娼婦を買う男がでてくる映画

さいきんみたもの

哀れなるものたち

ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地

 

に出てくる「裸の西洋人の男」なんですが

こいつらがことごとく誰もカッコイイやつがいない

娼婦を買うという「態度」があるだけでもうそれはすごく

かっこわるい

ように見える

のはオレだけなのだろうか??

 

それこそ哀れなるものたちのたくさんのショット

の中でもちろんエマ・ワトソンがさまざまな男たちと

セックスするシーンがたくさんあるのでありますが

あまりにもたくさんあるのでだんだんとそれが「普通」に見えてくるという

効果もある

しかしまあそれでセックスといえば「慣れ」であって

最初のオナニーのシーンからセックスやりはじめのときのエマ・ワトソン

ものすごく「驚異」ってくらいにそれしたいマジやりたい

となっていたのだがだんだんと慣れがついてくるにつけそんなでもない

と思うようになっている

ように映画では描かれているようにみえる

それでも後半にあるレズセックスのシーンはほんとに気持ちよさそうだけどね

それにつけても相手の男たちがみななんというか「見下げはてた」やつらで

どこが見下げはてているかといえば娼館におけるかれらの姿は

とても他の人間にはみせられんような無様にして不格好で品位もなければ

尊厳もない姿に落ちぶれているのであった

 

それはシャンタル・アケルマンの映画における「娼婦を買う男」も

同じでぜんぜん素敵じゃなければ尊厳も威厳も知性もなく

ただ金があって欲望があって他人でそれを満たしたいだけの人間

のように描かれているような気がするのである

 

いまここでとつぜんマンガ「ちひろさん」の元になっている

ちひろ」のことを想い出すわけだがあれはヘルス嬢なんだけど

ともあれ射精しにくる男たちが

そんなに見下げ果てたほどの人間でもないように描かれているのは

あれは作者がかれらに注ぐ視点のありかたに同情が含まれているからなのか?

同情といえるのかどうかは分からない

でも「射精したいのは人間のサガだからさあ」くらいのエクスキューズが

みえるのである

 

なんちゅうかね

 

ありきたりの倫理でいえば「性欲は異性のパートナー

を得る努力をしてその結果得たパートナーとのあいだで対等な関係性

をつくった上で合意の上で射精しろ」

という男性向けのなんちゅうか政治的に正しい倫理

(政治的!)

をここに置いてみてもなにも役にたたないというのが「世間の事実」のような

気がするわけで

 

どうにもならんバカのやつらの射精したい欲はAV世界などに向かい

AV世界は搾取が横行し

かといって風俗産業もまた搾取が横行し

雇用者と被雇用者が対等な契約をむすぶなど夢のまた夢

 

みたいな世界である

 

どこにいって経済が顔を出すし

戦争が起こると経済よりもっとわるい