フィクション(の効用とか)

なんでもいいが朝はいいね

朝にやれという村上春樹(その他ほとんどの作家)の

意見はわかる

あさはいい

 

なんかこうたとえば5月1にアゲル月刊日記のテーマ

を考えるならばたぶんどうしてもバイト労働ではない方面

のほうがいいとは思うが社会全体について考えるなどと

いうことはできないのだが公的部門に「バッファ」があるから

余裕がうまれるのは事実でもあるし

民間はくだらない「節約」とやらでそんなことしてても収益にならんのにさ

節約ばかやろうで

合理性というもんがまったくない

とかいいたいんだが

そんな話はあまりおもしろくない

 

どういうところからどういうマネタイズにつながるのかは

考えたいが

考えるより実践したほうがはるかにいいだろ

 

フィクションをみたりきいたりしてそれをもとに

たにんのセックスや他人の思想や他人の想いについて

おもいをめぐらすことは無益かってそんなわけはなく

なるべく言語でいうならばオレの場合は他人のそれについて

考えることそのものが脳内の色付けが味わいふかく滋養のあるものへと

変化していくんだよ

レトリックで言えばそういうことなんだけど

具体的にいうとそういう「感情」がエネルギー素材として入ってくることで

社会などという歴史などというなんなら無味乾燥になりがちなもの

を考えることが突然味と色と匂いのあるものに変化するんだよ

だから考えたいなあって思うんだよ

 

ヴィンランド・サガをずっと読んでいるのはオレが考えるところの

狩猟採集民と農民と略奪民の姿がそこに絵と物語をもって

存在しているフィクションだからさ

だからすげえおもしろいし

描かれていないけど子供がうまれたりしているとどういうセックスしてた

のかなあ~~とか想像するじゃんね

あたりまえにさ