5月29日’(水)

けろろん 

結論としては

(昨日が出来事BADだったのは京都でかったノートに手書きでかいた)

 

土曜日曜は横浜と新神戸にいくということになりもうした

その次の週は伊東だからさあ

いろいろありもうして

土曜なるべく朝はやくおきて

新幹線じゃないと余裕ないので

新幹線で新横浜

から石川町で下車 海に向かって

歩いて 港の見える丘公園経由

神奈川近代文学館

帰ってきた橋本治展をみにいくことにやはり

きめた(いまのオレに必要な気がするのである)(そっからのぞみにのって

新神戸

宿に荷物おいてパルシネマで夜パル)

そういう流れです

 

昨日の大雨がやんでやっと青い空があさに見えた

雨ばっかりよりはあおい空がいいだろういまそう思うもの

これには根拠がなくそう思うからそうだとしか

いえませんがね

 

はあやれやれ

 

いつも「これで最後にしたい」というやつにかぎってまた

Happenするので誠にやれやれである

 

なるようにしかならんなあという実感であるまさに実感

 

まさに実感だといえようぞ

ぞなもし

 

愛媛に行った漱石がぞなもしってきいて

その方言に醜さにあきれかえっただろうか?

それともそのころ「地方の方言の野蛮人は醜い」というかんじが

無かっただろうか?

 

もちろんオレのいるここも十分田舎で朝にまどをあければ自動的に

鳥がチュチュチュチュと言っているのがきこえるのはここが川にちかくて

川の土手公園そのた雑木林としかいえないBrutalな林があって

そこは鳥のすみかなのかねぐらなのか鳥がしょっちゅう出入りしている

から鳥はたくさんいるのである

都市にも田舎にも鳥は住んでいる

適度に

増え過ぎたら死んでいるだろうし

鳥にとっては適度な田舎だろうと都市だろうと

餌さえあればなんでも関係ないだろう

鳥の眼からすれば

敵のあるなし餌のあるなしねぐらのあるなし

あとは同族ライバルのあるなしくらいだろう

まあカラスも若いオスは生き延びるのたいへんらしいけど

(日天できいた覚えがある)

 

ラジオや

それこそ橋本治のように人間そのものをぶつけたようなエッセイや

思考や学術的なもの(江戸のことは論理でかきあらわせないだけに難解

であるという本なんてほんとうにわからない本で)

に触れることでオレはなんとか慰めをもらったり世界のひろさを

感じたりしているのである(オレがみているこの田舎の風景だけが世界ではない)

 

もういちどかくがラジオやいろんな人の著作にふれることで

ということで

もちろんここに映画もはいるんだけど

そういうのがないとまったく実生活~実生活ってなんだよ

賃金生活て言い直せ

賃金生活の無残なるありさまなどはまことに荒野であるので

堪え難いとしかいいようがないのである

と思うので週末にまず横浜にいく次第である

セーターの編み込みをみて橋本治におもいをよせるしかない

 

オレが生前の橋本治を見たことがあるのは

薩摩琵琶の演奏をするってんでその解説で壇上に登場した

橋本治をみたことがあるのが唯一だったなあ

たしかにすごく大きい(身長)人だったわい