映画「違国日記」について

静岡市シネシティザートで鑑賞

朝初回(まあまあのいり)

SNSではかなりアガってるぜ

 

さて

 

原作をどのように「脚色」するのかである

なぜなら全部を描くことは尺としてできないから

 

結果

・「母から朝へのノート(手紙)」の扱いがかわった

・森本の怒り(女性差別)とえみりのカムアウトはちゃんとあった

(パンフによると森本の話は原作者が入れといてくれと言ったそうな)

これだけでいいんじゃないですか

オレは好きですしこの脚色はちゃんとしてると思いますよ

だってテーマは「わかりあえない 他人とは」であるから

そのことを素朴に朝は疑問として提出しているし

槙生ちゃんはちゃんと違う人間だからだと理由を提示している

もちろんその言葉の意味を朝は理解できない(理解したくない)

それは仕方がない

今の朝にはわからない

 

だからこの映画は中心テーマをそれでも139分かけて

すこしずつ

朝と槙生ちゃんがぎこちなく築き上げていく話なのだ

映画は映画だ

朝の父の話などまったくでてこないし

えみり母の影も薄い

それでいいんだよ

枝葉は刈っていくしかない

 

「槙生ちゃんの姉への感情」を掘り下げる時間がなかったので

ノートの扱い

が薄くなって槙生ちゃんの人物像もちょっとなんというか

「すごく不器用な人」であることが薄くなってしまった感はある

 

どうしてもオレは原作との比較でみてしまうが

なにもしらず原作未読で観る人がどう思うのかってオレには

わからないじゃない

しょうがないもん

 

だから

こじらせ拗ねコミュ障というと悪口だが

小説家こうだいさんが

その人間像が薄くなったことに対比して

高校生組がすごく鮮やかに描かれて

朝の 「軽音はいるとかいったらママならやめろっていうかも」とか

えみりのセクシュアリティの苦悩

森本の怒り

みもりちゃんの「できることとそれがそのまま使うわけじゃないこと」など

女子高生たちみんなすごくいきいきしてて令和の女子高生

ってこうだ!って言えると思う

 

きしくもこないだみたトラペジウムが女子高生が意思を強くすればだいたいのことは

できてしまうという感じにもつながると思う

 

しかし

どっちかというとこの映画での女子高生たちは

なにか社会みたいなものと対峙しはじめたばかり

って感じで

なかなか大変だと思う

 

主演がW主演なので

朝を演じた白瀬憩さんが

顔がすごい朝になっている

すごい

いわばナチュラルに素直に口に出してしまう朝の感じがよく出ている

笠町くんといる槙生ちゃんにも絡んでいけるような

 

新垣さんはすごいうまいとは思うのだが

どうしても「あのマンガにおける不気味でさえある槙生ちゃん」では

なかった

 

と思うが実写映画としての小説家こうだいさんであったと思う

 

マンガと実写の違いをずっと思って考えているが

それこそ高木さんにしても「マンガの高木さんはいい意味で能面でいられる

からこそ恋心を隠して西片に接しているところがよい」のに

実写の人間が高木さんやると人間だから能面にはなれないわけで

(無表情という意味で能面という語を使っています)

 

おなじようにマンガのこうだい先生は背がバカ高くて髪が長くて

勢いがあって執筆中は誰の声も耳にはいらなくて

という人であるにもかかわらずその反面姉からの罵声を

いまだに忘れられない(その内容が合っていないのに)

というギャップのある人である

だれからも好かれない

とかいう呪いの言葉は

朝が映画で「それは(自分にできないことができている)槙生ちゃんがうらやまし

かったのでは」と言っていた

たぶん姉への怒り感情をまだ持っている槙生ちゃんは

マンガではそういうふうに合理化できていないし

映画でもできていないと思うが

残念ながら映画の槙生ちゃんは姉への「すさまじい残存する怒り」が

そこまでこっちに伝わってこないのである~人間の表情として~

 

マンガの槙生ちゃんがマジで姉のことをいまでも許していないというときの

顔はまさに

般若

だったと思うけど

実写の人間は般若にはなれないのである

 

そういう違いだと思ったんだ