だいたい鉱脈みたいなものはその全貌は
地中に埋まっているので見えないようになっている
氷山もその一角だけが水の上に浮かんでおり大部分は水中で見えないもの
として喩に使われている
ネットで無料で読めるようなものにこの世界の秘密が隠されているのが
その一端だけがほのかくれしながら波間に浮かんで見えて隠れて見えて隠れて
いるのでそこに見に行くとさにあらず(さにあらず?)
多くの有益な新しい視点からのVISIONが
多くのオレにとってそのあたりのことが実際にオレの欲している世界の秘密
というといかにも大げさだがnoteあたりに大量にテキストを
書きまくる人がいればそこに読みにいくと
その人は「今日はこれを見てこれは〇〇」
的な「観戦記」であり小説や舞台や映画の
いわゆる紹介でもあり批評でもあり
まったく自分の自分に属するバックグラウンドを書かないで対象のこと
ばかりをひたすら偏執的に書きつづけていくタイプの人が
ああまたここにもいたというかんじ
だいたいがそれはだいぶ歳を食っていて
ナンシー関について語るときの熱量やスタイルでだいたいその人が
どういう人か判別できる
ナンシー関を通っているともうその人というかナンシーの読者は
全員が
ナンシーを真剣に受け止めたという時点からもうそれ以前の自分には
戻れないのだ
その批評精神と自分そのものについて語ることになんの価値もないという
真の自虐のようなものを併せ持った存在にならざるをえない(自分を
みつめる自分はもちろんいるのだがそこで自分について書くのは違う
だろと 決断がそこで行われる)
と書いたのだが
オレはまさにオレがオレがの書くことばかりをしているような気がして
そこは
「すごく恥ずかしい こんなに価値のないものをオレかわいさにオレがオレが
のことばかり・・・」と思ってしまう
そして同じようにオレがオレがの人(つまりオレの父親とか)
を見ると「ああ・・恥ずかしい人がここにもいる」と思ってしまう
それは田舎の親は恥ずかしいものでとても人前には出せないなあ
というコンプレックスでもあるし
その親はオレと同じような恥ずかしいに値する資質を隠せないなあ
というもので
だいたいは親本人は恥ずかしいなんて思っていなくて子は恥ずかしいと
思っているのである
これはもうナンシーの話ではなくてオレの話にすりかわっている
noteで批評のかんじの大量のそれを昨日あたりから読むかんじになり
それで一時的に興奮がたかまったときのオレの日記である