記憶だけでも

それこそ

本とCDとレコード(とテープ)が好きな人というのは

そこから

いろんな人のつくった考えや音楽

を吸収したいと思っていて

 

いま思い出すにそのショップの棚にならぶものは

気持ちのいい音楽(あるいはあまりにもざらざらしてる音楽)と

本たち

本や雑誌はその製作者の考えをモロに

出すし

サブカルの人たちはエッセイになにを書くのかって

それぞれだろうけど

なんかこうたとえば能町さんはエッセイストと言われているが

それこそ

人生そのものを俎板に載せて出してくるような

覚悟とその感覚があるというか

でも芸能人的なライフスタイルを売るわけではなく

「ライフスタイルについての考えを売る」わけじゃんね

それってかつてのナンシー関

コラムですべて芸能人のことを書き書きハンコを彫りまた書き

書きつづけたことすべてはAはAであるがAであるということは

ただAであるというだけではなくAーA’ともいえるのではないか

という批評だったと思うわけだし(何を書いているのだオレは)

A-A’ということはAはAであるほかにもA’とも言えるような側面を

もっているということでそれは一方向からみたらAだが

他の方向から角度をずらしてみるとA’のようにも見えるということ

つまり多面体

そもそもがモノや人は多面体であるのがあたりまえなので

一面しかないなら二次元だそれは

それが批評ってことなんじゃないの

それを人生賭けて載せてるのが能町さんみたいな

やり方ってことなんじゃないかと思うわけだが

 

もちろんナンシー関のようなああいう代表的な仕事の

スタイルが他の誰にもまねできない(コラムとハンコのコンビ)

ものでハンコの絵柄にもコラムにも批評性が強すぎるにじみを出している

ようなね

だから濃い

 

そういうやり方があるんだってことだと思うわけよ

 

あと何について書き何については書かないということとかね

 

しかしなんちゅうかそういう感じの人がいるとその人が

それはいいこれはいいアタシこれが好きというと

その目は信用できるみたいな感じになるのである

それがたとえばマツコ・デラックスがこの味はいいこの芸能人のここがいい

などそういう感じで表現している(地上波TVで)ものたち料理たち

芸能人たちなどなどなのではなかろうかという

それは「マツコ会議」でいろんなものが出てくるわけだが

モノだったり人だったり

人の場合はマツコとリモートでじっくり話すみたいなことになる

わけだがそこに誰が出てくんのかっていろいろじゃんねADOちゃんが

出てきたときもあったし

 

それなら

 

と信用のできる目利きみたいに

あつかわれる

 

タモリだってタモリタモリ倶楽部でからんでる人やモノやコト

タモリが楽しそうにそれをいじくったりしていればそれは信用に

値するもんなんじゃないかと思ったりする

たとえばあいみょんが三連作で登場したり(官能小説ー浮世絵の春画ーラブホテル)

すればあいみょんのことを見直すわけである

見直すはおかしいな新しい側面というか若い女性シンガーの側面としては

あきらかにミスマッチに見えるのでそれが面白いというか

あるいはかつてさんざん登場したぁぃぁぃさんの鉄道趣味のたのしまれかた

とかさあ市川紗椰さんは今でもしょっちゅう出てるけど

 

オレがそれらを気にいっているだけではなくなにか世間(をTVに代表させるのも

おかしいか)でもそれらは流通されている

(誰かがそれを流通させようとして成功した)

ということがオレの耳目にも届いている

ということだと思うんだけど

 

なんだっけ

 

そもそもはその「ショップでセレクトしてる本のなかに能町さんの『結婚の奴』があった」という記憶だけでそこからオレがここに書いてるんだけど

ナンシー関のことを過剰に思い出してしまった