まなびストレート!とウィトゲンシュタイン「言語ゲーム」(強引すぎる関連づけ)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)/
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
二冊並行に読むとなんだか面白い。
まなびまなびと毎日騒いでいたが、別に全然違う分野を突然もってきたわけでもなく、自分の中ではすごく関連しているのだが、それを言葉で説明するなんてことはできるものか。できるものか?
 
まなびが、私たちに提示してくれたものというのは、
そして言語ゲームの考えが、提示していることとは、
「根拠は提示され得ない」
ことであった。
まなびは言った、「みんなでやる学園祭は楽しいに決まってるじゃん」。決まってる。そこには、根拠は何も提示されないのだ。誰か外部の人間がやってきて、まなびさん、なぜそういいきれるのですか?と問うても、根拠は提示されない。
そして言語ゲームの示すこともまた同じである。我々の行動は、振る舞いは、「とにかくこうやっている」だけのことであり、そこには根拠は何もないのである。
ここのところを、分りやすく説明できる脳が欲しいものだ。一番面白いところなのだが。
 
ここから先、しばらく内容が上記の本の内の永井先生の方(「入門」)の内容の引用からめになります。

2からはじめて、2ずつどんどん足していくという課題があって、しかしある生徒がなぜか100から先は104、108、112、と4ずつ足しはじめてしまった、おかしいので先生が、「2ずつ足していくと言ったのになぜ違うことをするのか」と言うと、「いいえ、違うことなどしていないです」と生徒が言う、なんかおかしい。
有名な例である。
ここでおかしいと思うときに、生徒に対して、何がおかしいかを説明することができなくなってしまう、のが言語ゲームというものである。(ちょっと説明に自信ないけどつづける)
というのは。我々は、「2ずつどんどん足していく」という言葉による説明を、どうしてだか根拠は知らないものの、とにかく、100を超えようと1000を超えようと変わらず”同じように”2を足していくという風に解釈しているのである。
いま””で囲んだ「同じように」という言葉が、「その一つ前にやったことと同じように」という意味であると捉える、その捉え方さえも、何故かは知らないが、そういうふうに捉えることに”なっている”から、そうやっているんである。
でも、生徒が、あたかもその生徒にとっては至極当然のように、100を超えたらそれまでのやっていたことを”倍化して”行うのが当然であるという規則に従っていたとしたら、いやそうじゃないんだよと説得するのに、いったいどこまで遡ればいいのか、が問題である。
というのは、明らかに生徒がおかしいと思っていても、こっち側つまり100を超えても2を足し続けることについての根拠は「そういう意味で”同じように”という言葉を使うことに決めてるから」としか言えない。皆がそうやってるからそうなんである。確固たる根拠などないのである。それが言語ゲームである。
ルールを知らない人から見たら不思議なことなどいくらでもあるものである。
たとえばYAHOO!オークションで、100円単位で価格が上昇していってるのに、なぜか10000円を超えたら500円単位でしか入札額を決められなくなっていたら不思議に思うでしょう、そんなことどこに書いてあった、である。書いてあるのかもしれないけどさ。俺、そんなの見てないもん。不思議不思議。
 
でも、隠されて、見えないところにあったのかもしれないが、
「みんなでやる学園祭=楽しい」の繋がりは、あったのである。あったし、その繋がりは、時間の差があったけれども、皆に、一般生徒に認められたのである。どうやって?それは
実践
である。まなびたちの実践によりそのことが示されたのだ。どうやってかは知らないが。それは例えば桃ちゃんのやってくれた海賊放送でもあるし、なんだか楽しそうにやっている生徒会室の掃除と改装でもあるし。
結果として、みんなでやった学園祭は、実際に楽しかったんである。どうして、そのことは、やってみるまでわからなかったのに、実現してしまったのか?そこが人間社会である。いつのまにかそのことは開始されていたのである。多分、「同じ」という言葉で「onaji」という音で同じであると内容を指し示すのだという合意ができあがっていったように、すこしずつ、みんなで何かをやってみて、それが楽しかったら広がっていってしまったのである。

ともあれ人間社会の構成員は、その中で行動様式の一致をみている。その一致は、いつのまにか、できあがったものである。多分、ある日突然成立したというよりも、少しずつ少しずつできていったと考える方が正しい。そしてまなびたち生徒会の活動も、一般生徒たちの方へ、少しずつ少しずつ浸透していったのだと思うのである。
やべえものすごく強引だ。

でも、ウィトゲンシュタイン先生が最後のころに言い出した言語ゲームというものは多分こんな感じのことなんだと思うんであるよ私は。ありとあらゆる世界の言葉や言葉のすぐ外側にあるようなものごとたちが、いろんな人間(みんな)の内や外や入ったり出たりしながら、ともに使えるような言葉をみつけだしたり、わかったり、してきたんだと思うよ。そもそも言葉が他人と通じるというところからしてすごい疑問だったんだ私は。どうして、オレの考えてることはオレの言葉とは必ずずれてるのに(一致して重ねあわせることは不可能なのに)、どうして他人に対してオレの考えてることが通じるなんて事があり得るのか、いいやありえない、と思ってたこともあった。同時に他人の考えがオレにわかるはずもねえとも思った。こういう疑問を持つようになってしまったタイプの人間は必ずLW先生のところにいきつくようになっているのだと思う。
でもちゃんとつながる道があったんだと思う。
 
多分、まなびに関しては物語についての感想で収まるが、LW先生については「学問」としての哲学であるから解釈間違ってるよ!と言われても仕方ないところであるからエッセイみたいなもんだと思ってほしいわ。