IQサプリ見た。まあ、あのくらい活躍してくれればいいんじゃないか。平均年齢16歳。はー。過ぎた年月を思うよ。いや十分若いんだけどね。しかしだんだん、対外的なシンボルが桃子になりつつあるのかね?
アマゾンで注文したったダヴィンチが届いたので読む。といってもさとう佐藤対談とテレプシコーラしか読むところがないのはいつものことだ。
テレプシコーラ。本当に漫画がうまいというかストーリーを開示する方法がうまいというか。みんな読者は、六花ちゃんがいずれ日本では類をみないタイプの、振り付けを創造するタイプのバレリーナになるって筋道をわかっているのだが、そこにたどりつくまでの道筋について、わかっていない。つまり犯人は明かされたものの犯行の手口のわからない小説みたいなものか(ちがう)。
なにしろ我々読者は素人であるから、何を理解すればいいのか分からない。ベジャールボレロを意識しすぎて自分のしたい振り付けを即興でつくることの困難さ、が、そこにあったとしても、どのような困難なのかを理解するのは大変に難しい。
しかしここで解説してくれるわけである。六花ちゃんのしたことが、「奇をてらう」ことだったということ、しかしそれを自分でわかっているということ、そしてカンノ先生の解説により、コンクールの中の一場面でさえ観客の目を意識したということが、extraordinaryであるということが分からされる。いやちょっと褒めすぎか。
しかし気になるのは、当面目の前のライバルであるところの派手な顔した女(名前わすれた)が、カンノ先生のおさらいを受けて何も指摘されるところがないということである。振り付けが完璧ってことかね。それなら絶対入賞とかできてしまうんでないのかね。
機械的に振り付けを行うことだけであれば人間以外の者が行った方がうまくいくのではないか。問題は、人間が振り付けを実行したときに、それを見た他の人間が、なにかを感じる、ということだ。
それはつまり観客の目から観客のこころに、なにかを届けるということなのだが。
こういうことを文章にしてあらわすと、いつも、なんか矛盾を感じる。論理としておかしい。
ある動きを、音楽にあわせて、音楽にのせて、行うことで、なぜ他の人のこころの中に、なにかが生まれるのか。
えっと、言葉によらない、言葉以外の方法でコミュニケーションが行われている。ノンバーバル。
「人は見た目が(略)」って本は実は見た目に気をつかえということではなくノンバーバルなコミュニケーションについて論じた本なんですってよ。喪女板の読書スレにそんな話があったとさ。
まあとにかくいろいろ考えさせられる漫画が一番だ。考えさせられたいのだ。