ゆう
金曜日の夕方の自宅だ
かえってきた
静かだ
家ではいまラジオもTVもついていない
サーキュレーターのモーター音はしずかにひびく
窓をあけ
外の
車の遠いタイヤの音はきこえ
鳥がときどきチュンとか
ねぐらに帰る直前の声のきこえる
概ね静か
ここから夜から朝にかけて大雨で
土曜は全部雨
ラーメン屋にいくのを躊躇するくらいの雨
澎湃
~が沸きあがる(たとえば世間からの熱狂的高い評価が)
さま
ほうはい
へえ
帰宅して自宅を耽溺する
今週もそれなりに大変だったが
それなりに何をどうするノウハウを身に着け
その場その場での話の流れの成り行きを
みつけて笑いを生み出して場を明るくする
ような
そんな
会話の掉の操作の方向の
流れの淀みもあればすいすいもあり
あるねえ
これから週末なので
そうだね
須賀敦子を論じている中で
「寂しさと孤独とは全然違う」との言葉が出た
以下引用
”池澤 そう。あんなに議論して、その貧しさを何とかしようとした結果がこんなものなのか、という皮肉な感想を豊かになった僕たちの世代は持つわけです。ヨーロッパの場合は、普通に生きてきて、ある程度誠実であれば、孤独が何なのか、ある齢になったら分かって、それに耐えるようになる。そういう構造が社会の側から用意されているような気がする。日本では、人間が孤独だということが遂に分からない。歳をとつて一人っきりで寂しいという感情以外の何でもないんじゃないか。寂しさと孤独はまったく無関係なんだけど。ヨーロッパでおばあさんたちが真っ黒いコートを着て、静脈癌の浮いた足でよちよちと歩いて、最小限の年金で独り暮しをし、近くの店で口論しながら食料をなるべく安く買って大事に食べて、そうやって生きている。友だちもほとんどいないし、ただ頑としてそこに生きているだけですよ。しかし、それで生きているあのしぶとさというのは、なかなかすごいものだと思いますよ。”
引用おわり
出典:http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/suga_kaidoku.html
「須賀敦子解読」
昔懐かしい感じのテキストサイトですね