書評から

そして書評を読むにつれ
主張というのはいったい誰がどこの高みから
行っているのか
俯瞰してものを見ているフリをしているような人は
どのくらい客観性に自信をもっているのか考えてしまう
 
もし自らの客観性に100%の確信をもっておればどう考えてもそいつは狂信者の誹りを免れない
 
しかし独善100%だぜと主張してもおなじく誹りを免れないのは同じなのである 
 
 つまりある立場にあって
 そこからの発言しか
 できない
 
宙にある立場というのは語義矛盾なので
 
浮いてたら立てないでしょう
 
だから生まれがいつであろうとも
その時代にあってはオレはこう思うと
発言していいし
 
誰かがなにかを言ったとしても
それは別に
いいんだ
そういうのもあるね
いいんだ
 
思想ってそういうもんだろ
 
しかしJ.M.先生がそのように語る
マルクス主義経済学が東大を牛耳っていた時代があって
そしてそれからだんだんと
駆逐されていくそのながれ
がある
あった
経験した
 
というあたりのはなしは
当事者でなければ
語れないだろうなあ
 
また一方でオレは思うのだが
 
当事者研究の手法は
老人(80代)の自分語りには応用できないのか
語らせる
語り
 
問いかければ応答はあるだろうが
問を出す舞台が難しい
だから介護民俗学
できたんだろうけども
 
むかしのエスノメソドロジーの「創設」やら
あるいは聞き書き
岸先生の「断片的な」のような
 やつとか
 
いろいろが
方法として浮かんで しかし実践を形にするのは
本当に大変なので
 
なにかまとめることができればそれは価値があるそれだけで
 と思ったりするわけで
 
論文だって書いてみればいいわけで
書ける環境というのもそんなにそこらにはない