美術館にいったりして
いくようになったりして
思うところはいったいそれが芸術であるというときに
じゃあ何が芸術なのか
ということで
正直いいましてたとえば
琵琶湖のほとり佐川美術館で楽焼(らくやき)をみても
何が芸術であるか
まったくわからんのですよ
器
うつわであることはかろうじてわかるが
色
形
やきつけ
あらわれてるそのもの 物 が
美しいとはどうしても思えないし
何をもってそれらがつくられて
また一子相伝みたいに受け継がれているのか
さっぱりさっぱりわからないのである(つまり価値がまったく
かんじられない)
そう言うと「価値じゃない」という人もいるかもしれない
また小説でオレにはさっぱりさっぱりわからない小説があって
読んでもさっぱりわからんのだが
それでもまだ小説であればそれをわかる人がどこかにいるんだろう
と思えるのである想像の中で
焼き物についてはそこの想像が追い付かない
さて
たとえばフランシス・ベーコンの絵画が
「美しい」
かといわれるとオレはけっして素朴な意味で美しいとは
思えないんだけど
そのかわりベーコンの絵には
絵じゃなくてコラージュでもだけど
凄みがあって
戦慄を人に与えることができる
そういう意味では樂焼もなにかこう泥そのものみたいな
生命
以前のなにか
地球だよ
みたいなものを感じることはできるのかもしれない
フィクションについても
なにかこう考えるヒントみたいなことを求めて
廣瀬先生のフランケンシュタインを通して小説の技法を読み
いまは批評理論入門を読み中だが
ケンダル・ウォルトンという人を知り
彼はフィクションを扱う中での
キーワードをたくさん
うみだしたり
また絵画(美学)研究で
「正しさの基準 standard of correctness」という概念があることをしり
それは
概念としてはWollheimが定式化した問題だそうで
レジュメ|Enrico Terrone「正しさの基準と描写の存在論」 - obakeweb
あれを
きれいだ
と思うことはできるが
実際にみてみると
絵画としては
そのちょっと前のところで
教会をひどく抽象的に描いたものとか
なんか具象からだんだんと抽象がはいってくるあたりが
すごく興味深いなあとおもって
ひどく乱暴なことをいえば
映画において
お話の構造がばらばらだ
という未来のミライみたいな作品も
いままでの映画の文法で見るからそう見えるだけ
なのかもしれないし
そうでもないのかもしれないし
なにかこう
もうちょっと言葉でオレが感じるものを
どっかとっつきやすくまとまった形で
書けないものかと
思っている
(だからこれはそのためのメモ