2022 豊田市美術館「サンセット/サンライズ」展

フランシス・ベーコンには

大変申し訳ない

 

さてこの横山さんの絵画は

 

というものなのだが

 

「美しい」ではなくて

「怖い/寂しい/恐ろしい/哀しみ」を感じてしまって

そこから「永遠につづく孤独」みたいなことも感じて

勝手にストーリーをつくってしまって

 

この犬っぽいものは人工生命に違いないとかおもって

この女子のきている服に書いてある安っぽい英単語は

HAPPYとか書いてあるけどぜんぜんHAPPYそうに見えない

皮肉だ

いやこれは

逆説だ

とか

永遠に夜だとか

犬っぽい人工生命は人工生命のくせに死ぬとか

やがてくる別れとか

それでも永遠になにか人間の他の助けはこないとか

紐帯も絆も家族も血縁もなにもないとか

そういう荒涼を

暗いせかいをディストピアを思ってしまって

 

それがなぜかオレのオレはいま空虚と闘っているのだが

それはオレがなんかこう世間の

たくさんの人はこういうふうに「みんながしているようにしてる」んだよ~=

でもお前さんはそれに逆らったから反抗したから勝手にしたから

なにも学ばないままでいまこんなザマになってしまって孤独で

誰とも話さないような生活をつづけているかわりもの(蔑んだ意味で)

になってしまったんだよ=~=という声が聞こえてくるような

それは幻聴でもあるわけだが

そういう感情が一気にオレに押し寄せてきて

 

架空のストーリーと謎の幻聴がこの絵画の黒い世界の夜のベッド

とともに犬とともにおしよせてきてこの女子もまた永遠に孤独で

拗ねて世間に背を向けたからこのまま若いまま老いていって

死んでいくんだーみたいな謎のビジョンまで出てくるのである

それは女子のへにょへにょした服みたいなのがオレにインスパイアする

ような大人とか男性性とか世間のなぞの掟みたいなものへの反抗

でもあるわけだがそれによってこの絵画の中の女子も苦しい生活へと

追いやられていくのか・・そうならないでほしいのに・・・

とか

 

急激にこのへんで(ここまでおよそ1分かかるかかからないかくらいの出来事)

気分がわるくなって絵画を見ていられなくなって離れたのだった

 

そのあと「ボクシング」絵画があったが

ぜんぜんわからんし

クリムトもベーコンもわからんね

 

なんじゃらほい

 

最終的にさいごに1Fの常設展で

こないだも見たけど

宮脇夫妻の作品とくに

宮脇綾子さんの刺繍作品をみてなんとかオレの内部を

保つ

刺繍はさかなとかやさいとかそういう生活そのもののものを

図案にしてくれていてオレは精神の平衡と平和をなんとかたぐりよせて

その足で外に出ておおきい池をみるのだった

 

このように

 

美術に「オレを攻撃してくるようなオレ内部の感情」をかきたてられた

のは初めてだったので

動揺した次第である

 

スマホ経由できくオーディオ・コメンタリーとかすごくよかった

んだけどね(もちろん一面の批評ではあるのだが)

 

いまのオレの内部の精神のそうそれですよ動揺(死ぬまでのみちのりについて)がおそらくは絵画によって惹起されてしまったんだよ

 

いやー

 

あの「枕」の絵とか

ふかふかで

寝心地よさそうですごくよかったんだけどさ^^ー

 

とにかく衝撃だったわ

 

このことはオレに「美術の趣味だなんてスノッブだねー鼻もちならない!」という気持ちがあることもまた再確認させた

 

さっき書いた「障害者と美術教育」みたいなことも

 

あるし

 

いろいろある

 

枕ってこれね(撮ってきた写真を掲示

 

 

 

あとで調べましたけど

ラブはちゃんとした犬で

犬と女子の生活はちゃんとした充実したものだった

そうですよ

けっしてべつにディストピアのことを描いたわけではない

ただ

犬が

生命であるけども愛玩動物として加工された存在であることも

事実で

その後なのか時間経過は前後はしらないけど

ネオン管でLOVEを描く作品など

LOVEについてひろがる

世界の

ことが

我々はほんとうにLOVEのことを知っているのか

知らないにきまっている

だってみたこともさわったこともないもんね

(視覚と触覚)

でも概念として他人から感じる暖かさは

あったね

記憶の中にね 経験の中だけど

そう

皮膚の温痛覚は

それをもたない人もいるけれど(まれに)

だいたいは温かさ硬さ衝撃などは皆もっているじゃんなあ

(だからヘレン・ケラーは水の流れを手に感じて水という概念を学んだ)

それは先生が偉いんだよ

と思うけどねえ

コミュニケーションってなあ

指文字かあ

 

いろいろ考えちゃう