年末

リオタール

ジャン=フランソワ・リオタール

大きい物語が終わった(意味を為さなくなった)

ところから小さいほうバラバラなほうへと

動いていくそれは

小さいほう弱いほう虐げられていたほうの

逆襲であるが

王族貴族に対する第三身分の逆襲とはどうちがうのか

というときに「身分とはフィクションである」ということはできる

しかしたとえば男女の境目というものがあったとしてそこで

「男女の境目とはフィクションである」といったときに

それを

笑うか納得するか

実際にはジェンダーという思考が生まれていこうは

遺伝子学ともあいまって

「実際には男性らしき生物と女性らしき生物がいるものの

そのあいだにスペクトラムとして無段階の段階がありそこでは

男女の区別は遺伝子生物的にもジェンダー的にもあいまいさの幅が

実際にある」とかいわれると

次には昔というか前からの

岸田秀「人間は本能が壊れているので」すべて幻想で唯幻論になっていく

 

しかしともあれ我々は仮初としての経済

お金の約束 これをお金とする

とか

ジェンダーあっても男女はわかれているとか

家という制度があるとか

仮にそうしたものをなるべく守っていきるようにしている

 

変えるのはエネルギーが要るのである

 

でも

定説なるものは不変ではないと「磁力と重力」を読んで思ったし

いろんな現代小説をよむ中では自明なるものは常に疑われているし

つまり疑わない姿勢は鈍重な頑迷固陋である(検証をさぼっている)

とか思ってしまうのである

じじいは皆愚か

とか思ってしまうのである

じじいほろびろ

とか思うのであるがそれはオレがじじいになったときに自ら

滅んでいかないといけない呪いであって

そういうので老人も元気があれば自殺するし

元気がいいねえ

 

そういうことを思う年末