もしかしたら

もちろんオレは「オレこそが世界でいちばん正しく正当で正統である」

と思って信じているが

信じてるというのは「そうではない」ことを知っている

からともいえるし

思ってるのはココロからそう思っている

 

山崎怜奈さんがNHKの20minドキュメンタリー

「拝啓ラジオパーソナリティー様」でナレやってるが

テレビなので顔出しである

山崎さんは顔はもちろんかわいいが

おそらくはアイドルとしては「Aクラス」ではなかったんだと

思う

なにがそれを分けるのか

なんだろう

もちろん山崎さんは「ラジオでしゃべる人」としては超A級である

(そうでなければ昼の帯などできないに決まっているのである)

 

かわいいかどうかはそれぞれのファンの主観なので

かわいさには「絶対的等級」が存在しないが

人気は数字で数えることができる(わかりやすいのが

いまでいうミーグリであるが)

 

今日は有吉の壁をみていて

本当に心底こころの底からそう思うのだが

ゲラだという佐藤栞里さんが驚いたり笑ったりしている顔を

みているとそれが本当に幸せに感じる’他人のそういう顔をみて

オレが喜ぶことができるのは謎でもあるが

みていてそう思うのだから仕方がなくて理由付けはあとのあとからである

 

なぜAVをみていることが「みていて気持ちいい」につながるのか

といえばそれは想像力で気持ちよくなっている人を見てその人の

気持ちよさを想像のちからでオレの体感に置き換えることが(あたかも

オレがそれを感じているかのような)できているからオレもまた

みていて気持ちがいいのではないかと考える

 

このあたりは「~ごっこ」の話にもつながると思うし

それこそケンダル・ウォルトンの「”ごっこ遊びと芸術”」である

フィクションとは何か

その副題

 

たしかに芸術というのは

A

Aを見る

Aを見ているBは気持ちがいい

 

Bは鑑賞者でAは客体である

 

Aはどんなものやどんな人だろう?

 

アイドルは芸術たりえるか?

山崎さんは芸術とは離れたところにアルチザンとして存在する方法のほうに

長けていたのだと思うのである

 

アイドルが芸術であるとすれば人間が客体でいられる時間は限られている

というしかない

アイドルではなくなったときにはそれは

「歌う歌手」だったり

「演技する俳優」だったり

なにかの「技術」を利かせる聴かせる見せる魅せる人になる

テクネー

つまり「〇」を自分の拡張現実として表現できるからそれが「芸」になって

「芸術」にもなるのかもしれない

自分自身のありのままのありかたがそれイコール芸術であると

名乗るのであればそれは自分自身は人間であり生ものであり

うつろうものであり変化するものであるから変化する芸術が

あるんだと言い張ることはできても他の鑑賞者がそれをみて

これはもう今は芸術ではないと

言い

すべての鑑賞者がそう言うのであれば

もうそれはその「自分自身」は芸術ではなくなる

のかもしれない

 

しかし技術はあくまでアウトプットであり「自分自身」ではなくて

自分の「つくったもの」であり自分の外に出せたものだ

 

いまこの書いてるもの途中で「芸術」の

定義がフランで揺らいでるフラヌール

 

しかしオレはまだ読んでいないウォルトンの本の中身に

ヴァーチャルで触れているような気分になっているのである

 

しかし霜降りのANNはそんなにハガキ職人の中で人気集中なんだねえ

へえ

 

あのちゃんと粗品のドライブなんてYOUTUBE急上昇するわけだよ

 

オレはオレが世界でいちばん正しく世界を把握しているとおもっている

という宣言ができるくらいオレはくるっているわけで