前回と今回(今週)もまたつながっている
オレがいつも思うのは男性(であると女性であるとにかかわらずなんだけど)としてこの世のあらゆる「多様性」についてスタンスとるときに
無意識でもオレがこれまでの男性の加害性を身に着けて育ってしまっているが故に
すべてのオレのスタンスについてオレは「加害性に気がつかないまま加害している可能性がある」として
怯え
ながら行動することは
立派なのか楽しくないのか正しいのか正しくてもオレは面白くないのか
正しくあることが最も優先されるべきことなのか
わからなくなるのである
いま書いてみた文の中にさえもう疑問を呈するところがたくさんあって
検証しきれない
橋本愛さんの文章をよんでいるとこの人は「正しくあることを最優先した結果として自分をケアすることが二の次になってしまっていないのだろうか?」と余計な心配をしてしまうのである
それとも理性でそんなことはとっくに解決済なのだろうか
オレはオレについては「オレは正しくない」ところから出発するしかないと
思っておりあとは同時に
「オレをもっとも大切に大事にする主体はオレでありオレがオレの最高の擁護者だ」と誓っているのでオレはオレを大事にしたいわけです
そうなると可能性としての加害性を帯びていることについておびえることはこの「大事にしたい」とは矛盾というか背反するわけですね
だからオレはそこがスッキリしないわけです
と考えていた