図書館に返す本

オレにしてはめずらしくちゃんと最後まで読んだ

『日常の読書学』中井亜佐子

コンラッド『闇の奥』の読解をつうじて読書と批評と外の世界

そのもの

について考えて最終的に日常的に我々(のうちの読書が好きな者)がしている

ことはどういうことかを考えるのことである

 

どうしてもウルフであるとか意識の流れ

文学のそれまでのそれがうまれたときとそのあとの変化

つまり「特定の人間が行うこと」(たとえば騎士)

から

「普通の人が行うこと」たとえばディケンズの小説での孤児とか

英国の「つとめ人」の生活など

 

普通の人がしていることを普通の生活のありかたを書く

しかしそれを書くことで読んだ人間はその「普通」の中に新たな発見をする

みたいな話しである

 

闇の奥

コンゴにいってかえってきた男が語る話しであるが

べつに冒険をした

ということではないらしいのである

いっけん

ある伝説の男をさがしにいって会ってそれから

みたいなことだが主人公の語りには遅延が多すぎて

時間軸もひねくねられていて

結局主人公はその伝説の男が死んでそのあとみたいな

時間のほうがながいみたいな

会うまでと死んでからが長い

だから伝聞で主人公がその伝説の男のことを語るだらだらと迂遠な

語り

をきくはめになるんだってさあ

そこにはアフリカにおける人間への偏見とか差別的表現とか

たくさんふくまれているし議論のまとになるし

あのちゃんいわく「大きいまと」である

 

しかしそれでもいまでも議論になるくらいのベースのある作品である

という話しである

 

そしてそれをベースに時代とかいろいろ改変してつくった映画が

コッポラの「地獄の黙示録」なわけだっという

 

なんかいろいろそのコンラッドの元作品というよりも

文学作品と我々の日常のあいだにあるもの

についてのほうが主題でもあるから

して

文学なんて日常を転倒させたいようなそうでもないような

どこかちがう価値観のたたかいというか

不思議なもんだとは思うが

 

まあまたかりてきた本があるので読もうと思うが

今回は石田夏穂2冊である『我が手の太陽』『黄金比の縁』

どっちかが顔で採用するのの話しだったと思うが

まあなんでもいいべ読んでみるべ

である